第12話 詠われる壁、新たな風
それはまるで、吟遊詩人に詠われるような一か月だった。
三十日間。
ノヴァスはあれからも驚異的な仕事量をこなし、不可能を可能にしていった。
その変化は、壁の建設だけには留まらない。
奴隷たちの生活すら激変していた。
手酌だった食事には粗末ながらも皿とさじが用意され、耐えがたい汚れが染みついていた寝床も、今は新しい板に張り替えられた。
ここ最近は、配膳係の二人組の看守が掃除を徹底してくれている。
「どうっすか? 綺麗になったっすよ、先輩」
「よし、次は乾拭きだ。彼らが戻ってくるまでに終わらせないとな」
奴隷と同じ死んだ魚の目をしていたこの二人の瞳にも光が戻り、ノヴァスへの奇妙な敬意が芽生えはじめていた。
そうした絶大な変革の結果――。
「完成だ」
額の汗をぬぐい、ノヴァスは南東の壁の上で夕日を浴びながら、最後の石を積み上げた。
その背中に一瞬だけ、極彩色の光焔の翼を広げた幻影が浮かんだように見え、中庭の奴隷たちの目に焼きつく。
――大勢が息を呑む音が、中庭から聞こえた。
次の瞬間には、どっと、強制労働場に似つかわしくない歓喜の声が上がった。
新しい切り石の匂いを放つ、巨大な壁がとうとう完成したのだ。
「やったなノヴァスさん!!」
「あんたのおかげだぜー!!」
「俺たちの勝利って言ってもいいよな!!」
「やったっすー!!!」
中庭に集まっていたみんなが、わいわいと、もはや看守の抑圧から抜け出して感情を発露させていた。
あれからというもの、ワーグが鞭を振り上げても、食事を減らそうとしても、ノヴァスの目のあるところでは完全に防がれてしまう機能不全になっていた。
だから、看守たちにこの騒ぎを取り締まる能力はない。
それどころか、一部の看守はノヴァスに感化され、奴隷たちをこっそり手助けし、今は人目を盗んでガッツポーズしている者までいる始末。
皮肉にもこの偉業の発端となった現場主任のワーグは、鼻の穴をひくひくとさせながら、目の前の信じがたい光景に鼓動を早めていた。
一人だけ暗闇の中に取り残されたような焦燥感から目を背け、責任者である看守長に詰め寄る。
「看守長!! あんた、この状況を許すつもりかぁ!!?」
しかし、看守長は諦めた表情で眉間をもみながらも、否定はしなかった。
「規則に違反していない。課された就業時間で、課された仕事をきっちりこなした。その結果だ」
あくまでも平坦に、本心を見せない言葉だった。
「……むしろ、規律を乱していたのは我々の側――」
ぷるぷると、ワーグはただ肩を震わせている。
「一か月でこの壁を作れと命令をしたのは貴様だろう、ワーグ。彼らは……それに応えただけだ」
「くっ……! 認めねぇ!!」
壁の上で歓声を受けているノヴァスをにらみ、彼のもとへ向かおうとするワーグ。
看守長はそれを制止しようとしたが、おそらく大丈夫だろうと踵を返した。壁を見上げる看守長の顔には――晴れやかな笑みが浮かんでいた。
◆
ノヴァスは完成した壁の上、歩廊に立って夕日を浴びていた。
「ふぅ……我ながら、一か月で無茶をした」
そうつぶやきながら、魔人族領側――東の森から吹き付ける心地いいそよ風を身体全体で受け止める。
しかし、その風の動きにわずかな乱れと、かすかに焦げたような匂いを感じ取った。
(これは……鉄が焼けたような、戦の匂い)
言いようのない不吉な予感を抱いていると、歩廊にやって来たワーグが中庭を見下ろしながら感情を爆発させた。
「散れ貴様らァ!! 仕事に戻れェ!!」
怒りで顔をゆがめ、見上げる奴隷たちの目からノヴァスの姿をさえぎるように立った。
壁の下の中庭で、うげっという声を上げた奴隷たちへ向けてワーグは宣言する。
「次の作業は北東の壁だ!! 期限は一週間!! お前たちの作業に終わりなんてない!!!」
ワーグが水を差したことにより、中庭の歓声はさっと消えてしまった。
その代わり、舌打ちとあざ笑いという、少し前までなら考えられないような反応が返って来た。
ワーグが虚を突かれたように、一瞬ひるむ。
「お、お前たちにはこの男がいるだろォ!? 当然できるはずだァ!!! できなきゃ一週間の飯抜き!! 俺様の命令は絶対だ!!!」
しかし、中庭の奴隷たちは誰も応えない。
強制労働場に、ワーグの叫びだけが虚しく響いた。
そんな彼の背に向かって、ノヴァスは言う。
「風向きが変わった」
「……な、何の話だ! 裸野郎!」
「なに、ただの忠告さ」
歩廊の手すりに手を置き、東の森の地平に目を向ける。
奥へ行くにつれて樹幹が深く、高くなり、果ては魔人族領へつながる――禁域の森。
「ここは紛争地帯だと聞いた。警戒を怠らないことだ――ワーグ様」
黄昏のなか、不敵に笑うノヴァスの異様な空気に圧倒され、ワーグは言葉を返すことができなかった。
◆
奴隷たちが壁の完成に湧きたつその日の夜。
昼間の威圧感に気圧された反動か、あるいは自らの権威が完全に崩壊した恐怖に耐えかねたのか。ワーグと取り巻きたちは、理性をかなぐり捨てた“いつもの暴挙”に出た。
そしていつものように、ノヴァスにのされてしまったのだ。
「今夜のお届け物だ。……まったく、汚いよだれが腰布についてしまった」
どさどさどさと、執務室の床に気絶した愚か者たちを雑に投げ捨てるノヴァス。
「……またか。今夜は何人だ」
書類から目を上げず、銀髪の看守長は深いため息をついた。
「五人だ――学習しないな、こいつらも」
埃を払うように両手を交互に叩き、ノヴァスは執務室へ踏み込んだ。
「……お前、私がここの看守長だということを忘れているだろう」
「似合わないからな。俺は俺の中の認識であんたに接する」
ノヴァスのあっけらかんとした言葉に、銀髪の看守長はふっと笑う。
「いつも通り処理しておく。腰布は……お前たちが勝手に作った中庭の水浴び場で洗っておけばいい」
「勝手にって、あんたにちゃんと許可を得ただろう?」
一か月の強行軍のあいだ、ノヴァスは劣悪な衛生環境にも手を入れた。
その一つが、中庭の一画にできた簡易的な水浴び場だ。
「建設計画にそんなものは無かった」
「でも、提案したら許してくれた」
「……労働の士気に関わるから身を清められる場を作るべきだというのは、理にかなっていた。ただそれだけだ」
「そこまで理解を示してくれるなら、しっかり壁で仕切って欲しかったんだがな。着衣のまま使うとはいえ、あれじゃ女の子たちが可哀そうだ」
「奴隷の監視と管理が私たちの義務であり、仕事だ。お前たちは――」
銀髪の看守長はそこで言葉を切って、言いよどんだ。
「社会的に物として扱われる……。お前も元貴族なら分かるはずだ」
「言い忘れていたが、俺は元貴族でもあるが、元孤児の下民だよ」
ノヴァスは、驚きで目を見張る同類にニヤリと笑いかける。
「あんたと同じで貴族は嫌いだ」
「そうか……」
銀髪の看守長は、何か思うところがあるのか押し黙ってしまった。
「もう一度言うが、あんたにはこの仕事似合わないよ」
二人の視線が交差する。
銀髪の男の青い目に見た初日の葛藤は、ほとんど消えているように見えた。
ノヴァスはそれから「それじゃ、夜更かしはほどほどに」と言って執務室を出ようとしたが、扉を開く手を止めて、振り返った。
「そうだ――森への警戒を強めたほうがいい」
「……どういう意味だ」
意図が見えないといった様子で、銀髪の看守長は首をかしげる。
「森から吹き付ける風に、戦の匂いを感じた。おそらく、何か来る」
突然の忠告に「馬鹿な」と驚く看守長。
「禁域の森は、エルフ族のような森人の協力がなければ越えることすら至難の業だ。森そのものが要害のようになっているんだぞ。一体、何が来ると言うんだ」
銀髪の看守長の問いかけに、ノヴァスは肩をすくめてみせた。
「さあな、ただの忠告だよ――あんたには、死んでほしくないって思えるようになったからな」
そう言って、ノヴァスは執務室から去っていった。
残された看守長は、ノヴァスの幻影にかつて騎士として遣えた主の背中を重ね合わせ、それを打ち消すように首を振る。
「死んでほしくない、か……。妙なやつに心配されるとは、私も落ちたものだ」
しばらくして、夜間の見張りをしていた看守の一人が泡を喰ったように駆け込んで来た。
「看守長!」
「……何事だ」
まさか。と寒気が走る。
「し、侵入者です!! ――魔人族の女らしき人影が、砦の壁をよじ登り、中に入る姿を見たと!!」
銀髪の看守長はにわかに椅子から立ち上がると、気絶して積み重なっているワーグたちを蹴り飛ばした。
潰された蛙のような声を立てて、愚か者たちが叩き起こされる。
(魔人族の女だと……? まさか、本当に何か来るとは……!)
ぐずる出来の悪い部下たちを急かし、彼は砦の警戒と捜索を急がせたのだった。
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