第124話 歩き出す者たち
意識の奥で繋がっていた何かが、ふっとほどけた。
張り詰めていた糸が切れたような感覚と共に、俺は静かに息を吐く。
「……終わり、か」
欠乏と結合は解除された。
身体を共有してたエオウィンの気配は、もうどこにもない。
あの妙に近かった距離感も、頭の中に流れ込んできていた感覚も。
すべて綺麗に消えていた。
なのに――
「……は?」
俺は眉をひそめた。
視界いっぱいに広がっているのは、相変わらずの白い靄だった。
どこまで行っても境界の曖昧な白。音も、匂いも、温度すら感じないこの空間。
「またここかよ……」
思わず舌打ちが漏れる。
終わったはずだろうが。全部。
それなのにどうして俺だけが、まだここに取り残されてる?
考えかけた、その時だった。
白い靄の一部が、ゆっくりと揺らいだ。
「……あ?」
俺は反射的に身構える。
ただの靄じゃない。
明らかに“意志”を持っている動きだった。
周囲よりも一際濃い靄が、じわじわと俺の正面に集まり始める。
まるで、形を成そうとしているみたいに。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
この空間で“何かが現れる”なんて、ろくでもないことに決まってる。
「誰だ」
低く問いかける。
返事は、すぐに来た。
「――お別れを言いに来ました」
柔らかく、どこか遠くから響くような声。
聞き覚えがある。
いや、忘れるはずがない。
「……キリン様か」
大地の女神。
このふざけた茶番の元凶の一柱。
濃い靄は、肯定するようにわずかに揺れた。
「はい」
相変わらず、姿は見えない。
声だけだ。
それが妙に気に障って、俺は口の端を歪めた。
「結局、一度も姿を見せちゃくれないんだな」
皮肉を込めて言う。
だがキリンは気を悪くした様子もなく、静かに応じた。
「平穏な世界が訪れた時に、またお会いしましょう」
「……はっ」
思わず乾いた笑いが漏れる。
なるほどな。
“その時”が来ない限り、会うことはないってわけだ。
つまり――
「当分、無理そうだって言ってるようなもんだな」
これからの世界が、荒れると踏んでる。
そういうことだろ。
キリンは否定しなかった。
ただ、静かに沈黙を保っている。
図星、か。まあいい。
どうせ聞きたいことは別にある。
俺は視線を靄に固定したまま、口を開いた。
「一つ、聞かせてくれないか?」
「はい」
「どうして、イザベラたちに俺のことを隠した」
言葉にすると、妙に腹の底がざわついた。
あいつらが俺の正体を知っていたら――
魔王ルースだと、最初から分かっていたら。
この旅は、あんな形にはならなかったはずだ。
もっと早い段階で、俺を切り捨てる選択だってできた。
俺に気づかれないように伝えておけば、西の大陸で俺が気を失ったあの時――
あいつらは、俺を討つことを選んだかもしれない。
そうしていれば。
もっと簡単に、世界は平穏に近づいたかもしれないのに。
「……それなのに、なんでだ」
問いを投げる。
少しの間、沈黙が落ちた。
やがて。
「フフッ」
小さな笑い声が、靄の中で揺れた。
穏やかで、どこか愉快そうな声音。
それが逆に、神経を逆撫でする。
「死んで終わりなんて、そんな楽な終わり方では罰にはならないでしょう?」
「……相変わらず、容赦ねぇな」
即座に返す。
思わず肩がすくんだ。
本気で言ってるのか冗談なのか、分かりづらいのがまたタチが悪い。
「冗談ですよ」
くすり、とキリンは笑った。
その声音は、先ほどよりも柔らかい。
「ご存じの通り、私は大地の女神なのです。その本分は“育むこと”」
育む、ね。
俺みたいなもんまで対象に入るのかよ。
「だから、初めに言ったではありませんか。自分を信じなさいと」
「……」
その言葉に、記憶が引っ張り出される。
そうだ。
あの時、こいつは確かに言っていた。
生まれ変わったことを伝えるな。
イザベラを導いてソヴリンを倒せ。
そして――自分を信じろ。
「道を歩けば、躓くこともあるでしょう」
キリンの声が、ゆっくりと続く。
「だからといって、歩き方を手取り足取り教えてもらうでしょうか?」
「……普通はやらねぇな」
「それを導きと呼ぶのであれば、いずれ人は歩き出さなくなってしまうでしょう」
なるほど。
言いたいことは分かる。
全部お膳立てされて、正解だけ与えられて。
そんなもんで進めるなら、誰だって楽だ。
でも、それじゃ――
「大事なのは、どこに向かいたいかではないですか?」
キリンは、一拍置いて言った。
「その道の半ばで躓いてしまったら、その時に初めて、導いてあげれば良いのです」
静かに。
優しく。
それでいて、逃げ場のない声音で。
「あなたなら、それができるはずです」
締めくくるように、そう告げられた。
「……買いかぶりすぎだ」
俺は短く吐き捨てる。
だが、その言葉は自分でも驚くほど弱かった。
完全に否定しきれない自分が、どこかにいる。
そのことに気づいて、舌打ちしたくなった。
その時だった。
ふっと、視界が明るくなる。
白い靄が、ゆっくりと晴れていく。
「……チッ」
思わず顔をしかめる。
別れの挨拶もなしに、勝手に終わりかよ。
だが――それでいいのかもしれない。
どうせ、また会うことになるんだろうからな。
光が差し込む。
現実の感覚が、一気に押し寄せてきた。
湿った土の匂い。風の感触。遠くで鳴く鳥の声。
目を開けると、そこは見慣れた森の中だった。
頭上には、もうあの異様な巨体はない。
エオウィンの姿も、空には影一つ残っていなかった。
「ルース! いたクェ」
『みなさんこちらです!』
すぐに声が飛んでくる。
振り向くと、クゥが翼を振り、ライラがこちらに手を上げていた。
その向こうから、イザベラやダグ、アレックスも駆け寄ってくる。
「……無事か」
短く言うと、イザベラが呆れたように肩をすくめた。
「それ、こっちのセリフなんだけど?」
軽口を叩きながらも、その目には安堵が浮かんでいる。
ダグも、クゥも、ライラも。
全員、ちゃんと立っていた。
それだけで、十分だった。
――その時。
視界の端に、別の光景が映る。
少し離れた場所。
エオウィンが上半身を起こしていた。
その足元に、クララがしがみついて泣いている。
嗚咽をこらえきれず、子供みたいに。
その様子を、ベニーが腕を組んで眺めていた。
呆れたような顔で、それでもその場を離れずに。
エオウィンは――
二人を見比べて、苦い顔をしていた。
そして、何かを言った。
距離があって、声は聞こえない。
だが。
その言葉を聞いた瞬間、ベニーの目が見開かれた。
クララも、涙を拭いながら呆けた顔になる。
予想外の何かだったのだろう。
「……」
俺は、目を細めた。
気にならないわけじゃない。
だが――聞く気にはならなかった。
あいつらの問題だ。
あいつらが、自分で決めることだ。
そこに口を出すのは――野暮ってもんだろ?
小さく呟いて、視線を外す。
代わりに、目の前にいる連中を見る。
こいつらは、こいつらで。
自分の足で立って、進もうとしている。
だったら――
やることは一つだ。
俺は肩をすくめて、軽く息を吐いた。
「……さて」
ほんの少しだけ、口元が緩む。
荒れる世界、か。
上等だ。
どうせ最初から、楽な道なんて一つもなかったんだ。
なら――
せいぜい、足掻いてやるさ。
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