chapter Ⅴ
ティボールトは紅緒を横抱きにしたまま玄関ホールを抜け、二階の踊り場へと続く階段を優雅に上る。
その間にも仕事に勤しむメイドやら執事たちから注目を浴びてしまう。おかげで今の今まで泣いていた紅緒の頭はパニック状態だ。ティボールトの腕の中で身を固くする紅緒だが、対する彼はなんとも思っていないらしく、表情ひとつ変えずに真剣な眼差しで進むその歩みは一定を保ったまま立ち止まる気配はない。
気がつけば、紅緒は最奥の寝室にあるベッドに下ろされていた。
そこにはもう、ティボールトの亡き妻の面影はない。あるのはナイトテーブルとキングサイズのベッドが配置されているだけだった。それがまた、どうしようもないほどのもの悲しさを感じる。
紅緒はただただ項垂れていると、彼は何を考えているのか、目の前で跪いた。
その姿はまるで愛を告げる騎士のようだ。彼はどんなに年齢を重ねようとも変わらない。――いや、年齢を重ねたからこそなのかもしれない。雄々しい中にも憂いを含んだ男の色香を感じる。
蒼の目は戸惑いを隠せない紅緒を射貫いていた。
揺るぎないその目はいつだって紅緒の胸を焦がし、虜にする。
紅緒の拘束はすでに解かれている。それでも動けないのは、偏に、ティボールトに心を奪われているからだ。
二人は互いに見つめ合う。しばらくの沈黙の後、彼は薄い唇をゆっくりと開いた。
「聞いてくれ、紅緒。君がいうようにぼくはたしかに彼女を愛していた」
そら見たことか。
彼が話したかったのはやはり妻への愛だった。
そこに紅緒に対する気持ちはない。
彼は知っているのだ。紅緒がティボールトへの身を焦がす想いの何もかもを――。
彼が言わんとしていることは聞かなくとも判る。
『身体だけの関係でのみ紅緒を受け入れよう』つまるところ、彼はそう言いたいのだろう。
しかし紅緒はそれを望んでいない。欲しいのはティボールトの心そのものであって、身体ではないのだ。
ああ、胸が張り裂けそうだ。ティボールトとは物心がついた時からの付き合いなのに、彼は結局のところ紅緒の性格や気持ちをなにひとつ理解していなかったのだ。
身体の関係で済まされるようなそういう安っぽい人間なのだと思われていたことが何よりも悲しい。
震える唇をひとたび開こうとすると、ティボールトは片手を上げて紅緒を制した。
「彼女に対しての愛は親友としてのものだった。紅緒、誤解だ。彼女ーーシャーリーンとは一線を越えていない。彼女は生まれつき身体が弱くてそれどころではなかったし、ぼく自身も彼女と情を交わすことさえ考えもしなかった。紅緒、彼女の父親とぼくの父が親しいのは知っているね? シャーリーンの父親が彼女の余命が残り僅かだったことを知り、夫になってほしいと頼み込んできたんだ」
シャーリーンには余命がなかった。
ティボールトの言葉は重みがあり、嘘をついているようには見受けられない。
そう言われてみれば、たしかにシャーリーンは他の貴婦人とは違い、滅多に外出はしなかった。彼女が部屋から出る姿を見かけたのは、『いろは楓』を眺めに庭を散歩するくらいだったと、紅緒は過去を思い返した。
しかしたとえシャーリーンの身の上がそれだったとしても、なぜティボールトは彼女と結婚を決めたのか。
「余命僅かだからって、どうして……」
彼はたしかに情に溢れた優しい男性だ。
しかし、だからといって自分を犠牲にしてまでシャーリーンの願いを聞き入れなければならないのか。
いくら親同士が親友だからといって、人生を左右する事柄を簡単に決めていいのか。
紅緒がティボールトの本心を見抜こうと試みる。
その彼は目を窄め、紅緒を咎めるような眼差しを向けてきた。
たったそれだけなのに、胸が痛めつけられる思いがする。
紅緒は悪いことなんてなにひとつしていない。にも関わらず、彼はなぜ自分を咎めるのか。
紅緒はますます意味が判らなくなった。
「……君を忘れられなかったからだ」
室内にため息が混じった彼の声が響く。
その声音は長年にわたる疲労が影を落としていた。
「同性の恋はなかなかに難しい。自分の感情で愛する君を巻き込むまいと考慮した。許してくれ、ぼくは君をずっと愛していた。いや、今でも愛している。妻がこの世を去り、ようやくまた心に平穏がやって来ると思ったのに、君への恋を諦めるために先のない妻を利用した。彼女への罪悪感が消えず、そして君への恋を諦められずにいる。ぼくはいい加減、君の呪縛から解かれるべきだ。亡きシャーリーンもそう願っている。君だってそう思うだろう?」
「……?」
そこでなぜ、彼は尋ねてくるのだろう。
ティボールトに尋ねられても紅緒はやはり彼が言っている意味を理解できない。
そもそも紅緒はティボールトがシャーリーンを愛し、二人は結婚したのだと思っていた。
だから彼女を失ったティボールトの悲しみは紅緒では推し量ることができないほど深いものだと思っていたのだが、ティボールトは紅緒を忘れるために身を固め、結婚を承諾したという。
彼の言い分が真実だとするならば、すべてが違ってくる。
ーーでは彼がいつも、もの悲しそうにしていたのは愛していたのはシャーリーンがこの世から去ったからではなく、紅緒を忘れるために余命僅かな彼女を利用したという罪悪感からだったということなのか。
「それってつまり……」
どういうこと?
頭が重い。
色々な情報が一気に流れ込み、紅緒の頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。
それでもなんとか真実を知りたくて、紅緒が口を開くと、彼の腕が伸びてきた。ベッドに横たわるよう紅緒を促す。
「この続きは明日にしよう。さあ、今はゆっくり眠りなさい。君がぼくの屋敷に泊まれるよう手配しておこう」
「この状況でどうやって眠れと言うんですか!」
心臓がやけに大きく鼓動している。どう考えても眠れる状況ではない。
「子守歌でも歌おうか」
真剣な眼差しで話す彼がおかしい。
滅多に笑ったことのない彼が、果たして子守歌なんて可愛らしいものを歌えるのだろうか。
紅緒はいつの間にか唇を緩め、笑みを漏らしていた。
「年を考えないといけないんじゃない?」
紅緒が尋ねると、
「それは君も同じだろう?」
彼は唇を緩めた。
滅多に笑わないティボールトの目尻には、紅緒が好きな小皺が刻まれる。
たったそれだけで、胸がいっぱいになった。
……明日は、ティボールトの気持ちをもっと奥深いところまで聞いてやろう。
そして、自分も好きだと恋心を伝えよう。
クスクスと笑い合う二人の声が殺風景な部屋に溢れる。
紅緒は骨張った彼の手を握り閉め、静かに眠りについたのだった。
(END)




