chapter Ⅳ
そして紅緒は今日もハミルトン伯の庭にいる。
今日はやけに身体が怠い。そう思ったのは楓に水やりをしていた時だった。昨夜からどうにも体調を崩してしまったらしく、ただでさえ広い庭のそこかしこに点在する、『いろは楓』に水をやるのは一時間弱とかかってしまって一苦労する。
今朝はいつも以上に苦戦していた。
時刻は十一時を回っている。普段ならば裏庭に移動している頃なのに、紅緒はまだ中庭にいた。
時間が経つにつれて身体はますます重くなる。それに加えて咳までも出てくる始末だ。
それでも紅緒はティボールトから笑顔を取り戻したくて懸命に楓の世話をしていた。
咳が止まらず背中が丸まっていく。次から次へと押し寄せてくる咳のおかげで苦しくて、蹲ると、頭上からひとつの影が差し込んだ。
広い庭には障害物もない。それなのに影は突然現れた。これはいったいどういうことだろうか。疑問に思った紅緒が顔を上げれば、そこには眉間に深い皺を刻んだティボールトの姿があった。
「咳が酷いな。風邪か? 顔も青白い。今日の仕事はしなくていいから休みなさい。ぼくの部屋を使ってくれてかまわない」
「へっ、平気です! 庭の手入れがありますから」
彼に手を差し伸べられ、紅緒は逃げるようにしてほぼ反射的に重い腰を上げた。
しかしいくら紅緒がやせ我慢をしても身体は正直だ。反射神経は鈍っているし、平衡感覚も狂っている。勢いよく体勢を変えたものだから、紅緒の身体が前のめりになった。
転げると覚悟した紅緒だが、もやしのように痩せ細った軟弱な身体はすぐにたくましい腕に支えられた。
「こんなに身体が冷たいのに君はまだ仕事をするつもりなのか?」
低い声が紅緒を責めた。
確かにそうだ。長い時間、外にいたせいだろう。紅緒の身体は自分が思っていた以上に冷えていたことを彼のあたたかな体温に包まれてはじめて理解した。
……ティボールトはずるい。
今年で四十二歳と紅緒と同年齢なのに彼の肉体は少しも衰えず、成年の頃と少しも変わらないなんて……。
「そんな状況で何を言っているんだ! そら見ろ、言っている傍から転びそうになったじゃないか。責任感があるのは素敵なことだが、こうまで頑ななのはあまり誉められたものではないぞ」
「ですがぼくは庭師です。奥方様が愛していらっしゃった庭を美しく保つのがぼくの役目です!」
(お願い、この手を離して。でなければ長年溜め込んできた恋心を口にしてしまいそうになる)
あたたかなこの体温が愛おしい。差し伸べられたこの腕を離したくないと、いい年した大の大人が幼子のように駄々をこねてしまいそうになる。
だから紅緒は戒めるようにして自ら胸を痛める根源ともなる彼女の名を口にした。
彼に甘えてはいけない。十年前に身を固めたあの時から、もう自分が知っているティボールトではないのだ。
紅緒は自分に言い聞かせ、目の前にいる彼を遮断するために強く目をつむる。
分厚い胸板を押して、愛おしい体温から離れようと試みる。
「ぼくは仕事があります。邪魔をなさらないでください。伯爵」
紅緒はティボールトを突き放すような口調で告げた。
ハミルトン家の主人が何を言っても一向に首を縦に振らず、片意地を張っている姿に苛立ちを覚えたのだろう彼は、声を張り上げた。
「妻はもういない!」
呻るようなずっと低い声が広い庭に木霊する。
その声は痛ましく、紅緒の胸を貫いた。
「……いないんだよ、紅緒」
もう一度口を開いて告げた言葉は今にも窒息してしまいそうになるくらい苦しそうで、まるでティボールト自身に言い聞かせるようだった。
はっとして顔を上げれば、揺るぎない蒼の目が紅緒を射貫いていた。
紅緒が恋して止まない力強い彼の眼差しが目の前にあった。
(でもどうしてそんな目でぼくを見る?)
なぜ、情熱的な目で紅緒を見るのか判らない。
ティボールトに掴まれた両肩が熱を孕んでいく。
「お願い、離して……」
ティボールトからの熱視線を受ける紅緒は、もうどうしていいのか判らない。
それでも紅緒は力なく身を捩り、どうにかして彼から逃れられるよう働かない頭を回転させる。
「いい加減にしろ! 主人のぼくが休めと言っている。これは命令だ! 言うことが聞けないのならば力尽くで行使するまでだ」
彼がそう言った矢先だ。紅緒は突然息苦しさを覚えた。
それというのも、薄い唇が紅緒の口を塞いだからだ。
今は独り身とはいえ、二年前には愛する妻がいた。
それなのになぜ、彼は紅緒に口づけるのか。
そしてなぜ、何の感情も抱いていない同性の自分に対してこれほどまで情熱的な口づけができるのだろう。
ただでさえ、体調を壊して頭がうまく働かないのに、予期せぬ彼の行動で紅緒はパニックに陥りかけている。
息苦しくて彼の胸板を押せば、その腕は簡単に取り押さえられてしまう。交わった唇はいっそう深くなり、紅緒の口内を貪るからたまらない。
おかげでとうとう紅緒は腰砕けになった。彼に身を委ねてしまう。
紅緒がすっかり抵抗できなくなったことを知ったティボールトは、ようやく唇の戒めを解いた。
紅緒から彼の唇が離れる時、それはまるで紅緒の気持ちを代弁しているように哀愁を奏でるリップ音が生まれた。
「どう、して……キスなんて……」
尋ねる言葉はたどたどしい。
ティボールトの胸板にぐったりともたれかかる紅緒は、荒くなった呼吸でぽつりと呟いた。
ひょっとして彼はすでに自分の気持ちを知っているのだろうか。憐れだと思い、口づけを寄越したのかもしれない。
そう思えば、紅緒の胸がずきずきと痛む。
瞼が熱い。
身を引き裂かれる想いに今にも泣き崩れそうだ。
紅緒は口づけられたティボールトの感触を消すため、強く唇を噛みしめた。
彼の思い通りに動いてしまう自分が腹立たしい。
紅緒は、三十年間もの長い間、抱いている恋心を捨て去ることができない諦めの悪い自分への苛立ち。それから身を焦がすような恋心を抱いている自分に見向きもしないティボールへの憤り。
それらのやるせない感情がせり上がり、やがてそれは涙になって紅緒の視界を揺らした。
彼はけっして振り向かない。
ティボールトの傍にいたい一身で恋心を打ち明けず、親友という立場を選んだのは自分だ。
臆病な自分が招いた結果だと自分を戒め、涙すまいと決意した薄い唇からは嗚咽が吐き出される。
吐き出される嗚咽の隙間をくぐって、風に揺れるいろは楓がさらさらと寂しそうに鳴っている。まるで自分の気持ちを代弁してくれているようだと、紅緒は涙しながら思った。
いい大人がいつまでもぐずぐずと泣いているなんてみっともない。どうにかして涙を引っ込めようとするのに、しかし三十年という長い恋心を抑える術はない。
紅緒の傷つきすぎた心は悲鳴を上げ、限界を越えてしまった。
紅緒はたくましい胸板に顔を埋め、泣き崩れる。
すると今まで黙っていたティボールトは、静かに口を開いた。
「……紅緒、ぼくは君を愛している。君への恋心を理解してからこの三十年間、ずっとだ」
彼が口にしたそれは嘘だと紅緒は思った。
「ふざけないでください!」
(ティボールトがこんな、もやしみたいなぼくに恋をしていただって?)
いったいどの口がそれを言うのか。
美しい女性と結婚し、身を固め、自分に見向きもしなかったのは彼だ。
首を振る紅緒を抱き締める彼の腕の力がずっと強くなる。
彼の言葉を真に受けてはならない。そう思うのに、ティボールトの甘い言葉を鵜呑みにしたい自分がいる。
……悔しい。
どうやっても自分はティボールトの思うがままだ。
それだけ、紅緒は彼に惚れているのだ。
紅緒はいっそう唇を噛みしめた。俯いたきり、何も話さない。それをいいことに、彼は紅緒を横抱きにした。
紅緒の身体が宙に浮く。
突然消え失せた足場に紅緒は短い悲鳴を上げると、咄嗟に腕を伸ばし、彼にしがみつく。
何事かと不安になる紅緒を尻目に、ティボールトは無言のまま悠然と屋敷に向かって歩いた。




