chapter Ⅱ
『いろは楓』はカエデ科で、もともと東アジアで生息する落葉樹だ。だから紅葉は日本ほど赤に染まらず、葉もやや小振りである。また、湿気を好む傾向にある。けれどもこの地域でも栽培は可能だ。乾燥さえ防げば赤く色づく。最近の紅緒の仕事といえば、もっぱら楓の水やりだった。
「やあ、いつ見ても美しい庭だね。まるで亡きシャーリーンがここにいるようだ」
ふいに後ろから声を掛けられ、紅緒の心臓がほんの一瞬、止まる。
いつだって彼の低い声は紅緒の耳孔を刺激する。声を掛けてきたのは誰かなんて顔を見なくても判る。
この城の主人、ティボールト・ハミルトンだ。
三十年という長い年月を恋の檻の中で捕らわれているのだから……。
紅緒は跳ねる心臓を落ち着けて、振り向いた。
「おはようございます、ティボールト」
果たして自分は笑顔がつくれているだろうか。
紅緒の心配は、しかし無用だった。ティボールトの視線は紅緒にはなく、最愛の妻であるシャーリーンが愛していたいろは楓に注がれていたからだ。
彼は今もシャーリーンを愛している。
そう実感させられれば、紅緒の胸に氷のナイフが鋭く突き刺さる。
胸に突き刺さったナイフはやがてじんわりと身体全体に周り、まるで毒牙の如く蝕んでいく。身体中のすべてが冷たく凍りついていく。
いつだって彼はこんなに身近にいる自分に見向きもしない。
それもそうだろう。なにせ紅緒の外見はそこら辺にいる誰よりも見窄らしく、東洋人独特ののっぺりとした地味な顔立ちだ。今年で四十二という年を重ねた自分には小皺が目立つ。同じ年齢でもティボールトとは月とすっぽん。彼のような気品さえもない。
しかも彼とは同性。どう足掻いても紅緒を恋愛対象として見るなんて不可能だ。それに加えて彼の立場は爵位を持った歴とした貴族だ。彼にはハミルトン家を繁栄させ、この国を導く義務がある。
それでも少しくらいは:--と思ってしまうのは仕方がない。だってどうしようもないくらい彼を愛しているから。長い年月を掛けて育んできた恋はもうすっかり成熟し、自ら手折ることさえもできなくなってしまった。
その彼が落胆の色を浮かべている。
たとえ自分の想いが届かなくとも、好きな人が悲しいと紅緒も辛い。
シャーリーンとの婚礼が決まった時、彼の元を去ることなく傍に居ることを望んだのは他でもない紅緒自身だ。
たとえ報われない想いでも、それでも紅緒が好きな笑顔を見られるのなら:--その笑顔が誰に向けられたものだとしても構わない。
(だからどうか笑ってください)
紅緒が見たいのはけっして唇を引き結んだ顔ではなく:--曇り空のように翳んだ蒼の瞳でもない。
紅緒が見たいのは、幼い頃から大好きだった陽だまりのようなあの笑顔だ。
「どうか気落ちなさらないでください。貴方がお元気なのが誰よりも奥方様がお望みでしょうから……」
痛む胸を押さえながら、紅緒はそっと告げた。
声が掠れてしまうのは仕方がない。それだけティボールトを愛しているのだから。
けれどもこの声音はシャーリーンが逝ってしまったためのものだと誤魔化せる。
「奥方……か、そうだな」
「…………?」
自分は何か悪いことでも言ってしまっただろうか。ティボールトの唇は引き結ばれてしまう。
紅緒がシャーリーンの名を出すといつもこうだ。
彼は最愛の妻を思い出し、苦しんでいるに違いない。
こんな筈ではなかった。
紅緒はシャーリーンが他界してから二年の月日を過ごしても未だに胸の痛みは取れない。それどころか、ますます酷くなるばかりだった。




