17話
週明けの月曜日となると桜が出社したと言う噂を耳にした。そう俺は耳にしただけだ。
相変わらず桜は徹底的に新倉を避けている。それも現在進行形で。
今回は第二企画部も加担しているから、俺は彼女に会いたくても会えない。昼休みや終業後に第二企画部へと足を運んでも桜はいない。
鳥飼も桜の意志を尊重し、新倉を桜に近づかせないように部下達に言い聞かせていた事もあり、週末となったこの日も桜に会えずじまいだ。
会社から出た新倉は桜に会えるかもしれないと淡い期待を抱き、以前偶然にも桜と会ったバーに立ち寄る事にした。
「おや、御曹司。どうしたんですか?」
糸井広太が自分の左頬を人差し指でツンツンとさしてる。
「御曹司はやめてくれよ」
あ…まだ腫れてたのか。くそっ親父のやつ思いっきり殴りやがって。
昨日また親父から殴られた新倉は保冷剤をおしぼりに包んだ物を手渡され、ありがたく使わせてもらっている。
糸井広太は彼の父親が会長秘書として働いていた時、孫の遊び相手として何度か屋敷に来ていた。
彼は唯一自分の出自を知っている人間だ。
今はバーテンダーとして自分の店を構えている広太だが、理系を出ている彼に浩之の父親が何度か徳永に入らないかと誘っていた事は浩之も知っていた。
「なあ、この間のルッソとか言う外国人。あれから毎日来てるのか?」
「ええ…ご贔屓にしていただいてますよ。それが?」
「今夜も来るのかなって思ってさ」
俺の言葉に呆気にとられた糸井は呆れたようにため息を吐く。
彼が必要以上に他人に対して干渉しないのは知っていたが、こいつのやり方でこの店は大丈夫なのかと人ごとながらに心配してしまった。
「ですが、今晩あの方がご来店されるかどうかは…あの方は神出鬼没で私にも断言出来ませ……! いらっしゃいませ。今宵はどのようなお飲物をご所望ですか?」
前言撤回!
さっきまで俺と軽口を叩いていたとは思えないほどの滑らかな対応に舌を巻いた。
やっぱこいつは徳永の懐刀と言われたあの糸井の息子だ。
自分との差をまざまざと見せつけられた俺は目の前にあったグラスの中の物を一揆に煽った。
おや、今夜は違った意味で荒れていますね。
その声に驚いたように声のした方へと振り返れば、そこにはルッソ=バルトーが満面の笑みを浮かべていた。
「!!あんたは!!」
「おや、君はティンクの周りでキャンキャン吠えていた五月蝿い子犬君じゃないか。ん? 君はティンクの事が好きなのかい?」
な!!
自分から声をかけておいて人の事を犬呼ばわりとは。
それもキャンキャン五月蝿い子犬って…。
後ろを振り返ると糸井は肩を振るわせ笑っている。
お前〜!!
隣良いよね、と俺の意見などそっちのけで隣に座した。
「!!」
ダメだここで怒ったら何もかもが水の泡。落ち着け俺。
俺は何度も深呼吸を繰り返すと次第に高ぶっていた気が落ち着いて来た。
「ティンク? 誰ですそれ?」
目の前の白髪の老紳士はおや?と片方の眉を上げると糸井にいつものをと注文していた。
二人の目の前にはバーボンのロックが並んでいる。
「ああ…僕はてっきり君は彼女の事を知りたいと思っていたんですがね。僕の見込み違いでしたか。そうでしたか」
「え?」
何でこの人はさっきからティンクティンクと言っているんだろう?目の前にいる糸井を見れば自分で考えてくださいとばかりに後ろを向かれてしまった。
ただルッソに教えてもらったのは『ティンク』と言うのは彼が付けた早乙女桜の渾名と言う事だけだ。
「ティンクと今の早乙女との間に何の関係があるんです?」
「おや?君は社会人でしょうが」
ロマンスグレーの色香を漂わせた眉を片方だけ器用に上げると、分からないなら人に聞かずに自分で考えてみろ、それとも君はいつまでも嘴の青い小鳥なのかと嗾けられた。
「おや、失礼小鳥は女性を表す言葉でしたね。君の場合はやはり五月蝿い子犬ですね。全てを周りにやってもらおうとしている子犬ですよ。聞けば全て答えを教えてもらえるわけじゃないのは分かっているはずでしょう」
そ、そりゃぁ目の前の白髪の老紳士に比べたら俺なんて尻の青いガキにしか見えないだろうよ。
あんなに嫌われているのに、これ以上彼女の事を調べてどうなるって言うんだよ。
「君は諦めるのかい?僕が君ならまあティンクを怒らせたりしないけどね。ティンクは私の愛しの人だからね」
な、なんだってこの爺は俺の神経を逆撫でするような事を言ってくるんだよ!
思わずグラスを握る手が震えてしまう。
糸井からグラス、割らないでくださいよと注意されても、なかなか俺の怒りは収まらなかった。
「俺は彼女に嫌われているんですよ。それをどうやってひっくり返せというんですか?」
ため息まじりに吐いた言葉は新倉の本音。
「愛の反対は何か知っているかい?」
愛の反対?そりゃあ嫌悪だろう。そんなの子供でも知っているとばかりに自信満々で応えれば、ルッソは俺の方をチラリとみると呆れるように溜め息を吐く。
一々このおっさん、やる事なす事頭に来る。
ついでに女と見ればすぐに手を出しているし。俺と話している今でもルッソの手は隣の女性の太腿の上を這いずり回っている。
その度に女から手を抓られてるが。どうせなら金的してやれ!
「おっさん!こっちは真面目に話をしてんだ」
すでに俺の中ではこの人がいかに世界的に有名な指揮者ルッソ=バルトー改め『おっさん』もしくは『エロ爺』に決まりだ。
はぁ〜一体なんなんだよこのおっさんは。
本当に自由人…。
あれから一時間ほどおっさんからの言葉を待ってるが、何も言って来るどころか、俺の存在自体無視かよ!
真面目にこのおっさんとつきあってるとこっちが疲れるわ。帰るかと席を立とうとした新倉に声が投げかけられた。
「君は、先ほどの答えも分からなかったか…。実地でやったのにね。まあ、ティンクの事も上辺だけしか見れないからね。君ならもっと出来るかと思っていたのに、残念だよ。僕から君に教えるのは今回だけだ。次回はないよ。愛情の反対は嫌悪だと殆どの人が思ってるんだよね。でもね、僕は嫌悪するほどその相手の事を知るって言うのは一種の好意。愛情だと思ってるんだよ。そうじゃなかったら嫌いになんてならないでしょ?だから愛の反対に嫌悪は当てはまらないんだよ。愛の反対は無関心。君とティンクはどうなんだろうね」
無関心…。
カランとグラスの中の丸い氷の塊が音を立てる。
また聞きたいならここで会おうそんな言葉を俺にかけながらもおっさんは両手に女を引き連れて帰って行った。
つ、疲れた…。
たった二時間話ただけなのに、俺の中の何かがゴリゴリと音を立てて削られて行くのが分かったくらい疲れた。
ティンク…。
妖精ね〜有名どころと言えばイギリスに伝わる古い民話だろう。
悪戯好きで短気で我が儘。
地べたを這いずり回るような生活よりも、空を越え海を隔てた向こうの世界へと夢を馳せた妖精の話。
早乙女桜がそんな風な破天荒な女か?
一体何言ってんだあのおっさんは。
無駄骨を折ったようだと内心がっかりしながらも、飲み代を支払うため財布を取り出すと、財布の中からおっさんの名刺が出て来た。
いつの間に仕込んだんだあのおっさん!!
次の機会はすぐ叶った。
この日も同じ場所であの憎たらしいおっさんとこれから会う。
時間にルーズなのはおっさんが外国人だからなのか、それとも俺が神経質だからなのか。
いかん、いかん。あのおっさんに上手い事流されてる。
約束の時間からすでに三十分が過ぎた頃にようやくおっさんが現れた。
待たせて悪かったねと一言詫びていたが、何で俺にどうして女の子達がいないんだと文句言う事ないだろうが!
いかん、このおっさんと話してると今まで作って来た自分が壊れてしまいそうになる。
平静を装うために寿下無を何度心の中で唱えた事か。
「この間の答え合わせをしようか」
いきなりかよ!
「ティンクはね、本当に嫌っている人間には無関心なんだよ。例えばあの城島礼のようにね。そうだね…彼女の事を知りたいのなら、海外のサイトで『ティンク』を調べてみれば良いってまさか、調べてなかったの?もしかして『ティンク』の事を有名な御釈迦話かとでも思ってたとか?」
茶目っ気たっぷりの目で面白い物が見れるよとウィンクして来た。
おっさんにウィンクされてもちっとも嬉しくない。それにしてもこの間から真田も言っていたな。
ー桜はティンクなの。誰にも捕まえられない。誰もが彼女を欲しがる。羽をもぎ取ってまでもね。
その時は意味が分からなかった。
ピー◯ーパンの妖精のことだろ?と頭で決めつけていたから今まで調べる気も起こらなかった。
おっさんに催促され、渋々その場で『ティンク』をぐぐってみると早速山のようにティンクに着いて出て来た。
殆どがイギリスの有名な御釈迦話だったが、その中で現代に現れた妖精と言う名のタイトルがついた画像が出て来た。
「な…なんなんだよ。これ…」
俺が愕然としている中、おっさんはまたね子犬君と手を振って行ったらしい。俺は全く気づかなかったぜ。
[天才ヴァイオリニスト現れる!少女の名はティンク]
[ルッソの愛弟子]
「ウソだろ!」
振り返ってルッソの方を見ると彼が座っていた席にはもう誰もいない。
忍者かよ。あの爺!
糸井の方を見るとちゃんとお前に声をかけてから行かれましたよと教えてもらったが、一体いつ俺に声をかけたよ!
「お前が早乙女の画像を見て愕然としていた時だ。馬鹿野郎。間抜け面さらしやがって」
今日の糸井はなにげに刺がある。
あーまた逃げられちまった。もっと早乙女桜の事で聞きたい事があったのにな。
あんなに俺はあいつの事を気にかけていたのに、俺は何も知らなかった。彼女が幼い頃から既に欧州でプロのヴァイオリニストとして有名だった事。
彼女が十才になった年には数々の巨匠達と音楽を通して友情を深め合って来た事も。
彼女が作曲した曲も多々あるが、全て知ってる曲ばかりだ。
クラッシックばかりかロックやポップまでありとあらゆるジャンルの曲が幼い彼女の中から生まれた曲だと知り、目を見張った。
どうしてここまで有名なのに…。なぜヴァイオリンが弾けないって言うんだ?
掲示板の方を見てみれば、一時期城島礼の新曲が彼女が昔作った曲に似ている事が分かり、それで城島がティンクの曲を盗作したと言う噂が流れていた。
そう言えば、城島礼が作曲家としてデヴューしたのは二人が大学生のころだと言うし。
あの二人に何らかの接点があったとしか思えないが、一体どういう関係なんだ?
音楽の神に愛されてる桜がどうして音楽を自分から拒絶しているのか。
「わからない…」
俺の疑問は泉から湧き出る水のように湧いて来るばかりで何も解決にもなからい。




