14話加筆
「坂本さん、まだお休みなの?」
「そうよね〜幾ら彼女のせいじゃなくても、早乙女さんに彼処まで嫌がらせしてたら、ちょっと来れないわよね」
「そのうち退職しちゃうとか?」
第二企画部内では色々な憶測が飛び交っていた。あの事件後、坂本真弓は過労で会社を四日ほど休んでいる。
社内ではやはり桜を階段から突き落としたのは佐竹でも、後ろで糸を引っ張っていたのは坂本真弓だったんだと言う噂が出回り始めた。
山田はと言うとあれだけ坂本と一緒に行動していたのに、彼女は坂本が病欠で休んでいる間にさっさと手続きを終えて、総務へと帰って行った。
第二企画部には以前よりも幾分過ごしやすくなって行った。
それでも定時ギリギリには必ずと言っていいほど示し合わせたように、相も変わらず新倉が書類を提出してくる。
だが、桜はそれを受け取らず、他の社員に回すようになった。
初めからそうしていれば、坂本真弓に変な誤解を生ませるようなことなどなかったのだ。
やはり最初から自分で何でもしてしまおうと思っていたから、それが返って逆効果だったんだと漸く桜も気がついてきた。
「坂本さん…辞めませんよね」
ぽつりと零した桜の言葉に第二企画部内の人間がピクリと反応する。
「ちょっと、早乙女さん、お人好し過ぎだよ」
「そう…かな…。でもやっぱり坂本さんほど取引先の事を知っている人はいないんですよ。課長だってこの間、坂本さんにSD警備の新城様のことで助けられたんですよね? SD警備の専務のお嬢様が戦場カメラマンとして別名で働いていらっしゃったなんて知りませんでした。やはり坂本さんは退職するには惜しい方です」
あれほど桜を目の敵にしてきた坂本真弓だったが、桜が言うように彼女はこのまま退職するには惜しい人間だ。そもそも彼女ほど多くの取引先の細かな人間関係や好みを把握している人はいない。
鳥飼課長もそう思っていたらしく、早乙女と呼ぶと桜に坂本真弓を連れ戻して来いと言う命令を課した。
反対の意見もちらほらと出たが、桜は悪いのは坂本さんだけじゃないんだと言い出した。
「確かに坂本さんは私に対して特に厳しく接してきました。だけどそれは私にも非があったからです。私が何でも一人で背負い込んでしまい、誰の助けも借りずにプロジェクトをなせば、チームワークなんて学ぶ事も出来ないだから敢えて坂本さんは私に苦しかったら人に頼れと言うためにして来たんだと思います」
「でもそれって早乙女先輩の人の良さを利用しているだけなんだよ。だって彼女はいつも残業を早乙女先輩に押し付けて帰ってたじゃないですか」
「…確かにそうです。でも、それだって私がちゃんと他の人に仕事を振り分けていれば、そんな事にはならなかったんです。口で言われてても、私ってほら頑固だから意固地になって何で仕事がもっと早く出来ないんだって自分で自分を責めてしまっていたんです。そんな私の性格を坂本さんはいち早く気づいていて、敢えて自分が悪者になるようにしてたんじゃないのかって思ったんです。ですよね部長? そうだったから部長も今までの坂本さんの言動には目を瞑っていたんじゃないのかって、漸く解ったんです」
「ふん!何よそれ。そんな良い子ちゃんの言葉を聞いていたら、戻ってきたくても戻って来れないじゃないの」
少し甲高い声が第二企画部内に響いた。
「「「「「「「「「坂本さん!」」」」」」」」」
第二企画部にいるみんなの背筋が心なしか、びしっとなった。
「あんたって本当に変よね。あれだけ私にやられといて、私を庇うなんて…だから嫌なのよ。人を惨めにさせないでよね」
坂本の綺麗な柳眉が微かに震えていた。
何で私をこんなに惨めにさせるのよ。坂本の目頭に浮かぶ銀の粒に桜はふわりと微笑んだ。
「すみませんでした。坂本先輩、ご指導よろしくお願いします!」
「そこ!人に謝罪をする時は、今は仕事中でしょうが!すみませんごめんなさいは会社内の同期だったら良いかもしれない。けれどこれがビジネスの場だったら…それは違うわよね。すみませんでしたと言うよりも、ここは先輩に教えてもらっているんだから『ありがとうございます』って言えるようにならなきゃいけないのよ。取引先への謝罪は申し訳ございませんが一番無難と言う事も頭に入れておいて」
「は、はい!」
「これは第二企画部のみんなにも、営業部にも言えるのよ!」
ひぇ〜怖いぜ。鬼の坂本帰って来たねと囁く声もあったが、桜の睨みでぴたりと止まった。
がばりと頭を下げた桜に坂本は肩を竦ませると、いつの間にか第二企画部に来ていた部長の顔をちらりと伺い見た。
彼も同意見だったらしく、坂本は部長の秘書として働く事になる。それには佐藤が不満げにしていたが、部長から坂本真弓は元々秘書課だったが、四十路にさしかかる数年前にここ第二企画部に移動となったのだと言われ、今後坂本には自分の後進指導にも当たってもらうと宣言した。
坂本は桜を一瞥した。
「部長、私は早乙女さんを後任として指導して行きたいです」
坂本は自分の下に付く人物に桜を指名すると「私の指導は今まで以上に厳しいわよ。それでも着いて来れる?」と牽制した。
「はい。よろしくご指導お願いいたします」
それに桜も応えるように微笑んだ。
その日以降、新倉たち営業部が倉庫の鍵を借りるために第二企画部をたよりにしよう物なら、坂本が火を吹くようになった。
「これは第二企画部に持ってくるような物じゃないでしょ!第一です。資料庫の鍵は営業部にもあるんだから、自分たちでリサーチして来なさいよね、何でもかんでもこっちに丸投げしないで頂戴!」
今までは営業部で調べ物があったとしても資料庫の鍵がないと言うことで鍵を持っている第二企画部にお得意先や注文書類などの下調べを全て任せて来たが、今回新たに坂本が部長に進言して、営業部にも倉庫の鍵を置くようにしたため彼らが書類を持ち込んで来る用事は少なくなった。
だが、たまたまそれを忘れていた営業部の人間がいつものように「コレ調べといてくれる。頼むよ〜」と第二企画部に書類を持って来た物だから、大変な事になった。
「ちょっとお待ちなさい。私達はあなた達営業部の秘書とか小間使いじゃないのよ。こんな調べものぐらい、自分たちでやりなさい」
「俺たちは今から仕事なんだよ」
そう言いながらも煙草を放さない男達に坂本の眉間に皺がまた深く刻まれる。
「仕事ですって?資料庫の鍵は営業部も持っているでしょうが! あなた達は煙草を吸う時間さえも仕事だと言っているけど、喫煙室で話している事は、ただの下ネタと風俗の話ばかり。どこが仕事の話かしらね」
営業部の男達は坂本のもの凄い剣幕に恐れをなした。それ以来彼らは坂本の顔を見る度に書類を持ってすごすごと持ち場へ帰るようになった。
ふー。
只今、資料庫の中でため息を吐いているのは桜だ。
弾けないと解った途端、弾きたくなるのが人の常と言う物。
古いヴァイオリンを愛おしそうに撫でるとつい、構えてしまう。
「!」
鈍い痛みに顔を歪めながらも弓を握ると今弾ける限りの音を出してみた。
「……」
なんて酷い音だ。
弓を一定の強さで引けないからか震えて、他の弦にまで当たってしまってへんな音しか出せない。
それでもなんとか一曲弾き終えた。
パチパチパチ……。
拍手が突然聞こえて来て振り向くと、そこに立っていたのは徳ちゃんだった。
「徳ちゃん…ごめんね、酷い音で…音の強弱も出来なかったしビブラートも少ししか出来なかった。弾かなきゃ良かった…ははは…」
力なく苦笑する桜に徳ちゃんは微笑むと首を横に振った。
「でも儂には桜ちゃんが一生懸命に弾いてる事が解ったよ。桜ちゃんは本当にヴァイオリンが好きなんだね。それが伝わったよ」
それでも今の自分の演奏では誰も感動させれないと項垂れるように呟く桜の背中に徳ちゃんとは違う声が聞こえて来た。
「なあ、音楽って上手に弾かなきゃならないのか?」
「え?」
驚いて声のした方に目をやると、桜は目を見張った。
「新倉…さん」
「なあ、音楽ってさ、上手く弾かなきゃならないのかよ?君のは上手かったけど、俺にはそれだけってしか感じなかった。何つーかテクニック?そればっかりに気を取られてるって感じで、聞き手なんて置いてきぼりだったな」
「聞き手が置いてきぼり?」
「そう、下手なオナニーショー」
「なっ!」
そんなはずはない。自分は今やれるだけのことをやったんだ。なのに何でこの男は人の神経を逆撫でするような事ばかり言うのだろう。
「クラッシックは、譜面通りに正確に一音一音弾く事を求められるの。作曲家の意志がそこに書いてあるから、それを表現するのが音楽家なの」
「ふーん。君のは焦ってばかりだったね」
「!!」
何でこんな男にこんな屈辱的な事を言われなきゃなんないのよ。
「あ…あなたに私の何が理解かると言うのよ!」
ヴァイオリンをその場に置いて桜は駆け出して行った。
もちろん、自分に対してあんな事を言って来た男に対して、思い切り向こう脛を蹴り上げて。
ふぅー。
資料室の中で徳ちゃんのため息が低く響いた。
「浩之。お前は桜ちゃんの傷を抉る事しか出来ないのか?」
全くお前は好きな子を虐める小学生かと嫌みのように祖父から言われ、新倉は黙って下唇を噛み締めると俯いた。
「まあ、まだ桜ちゃんはヴァイオリンを叩き壊すほど嫌ってはいない事だけが救いだ」
そう言うと徳ちゃんは桜が置いて行ったヴァイオリンを赤子のように注意深く扱うとケースの中に仕舞った。
坂本の年齢を引き上げました。




