第4話:終着駅の引き返せない道
山形から秋田を抜け、さらに奥羽本線を北上して津軽平野へ至る頃には、空は鉛色の分厚い雲にすっかり覆われていた。
車窓を叩く雨はいつしか霙混じりの冷たい雫へと変わり、見渡す限りの刈り田には薄く霜が降りている。
吹きつける地吹雪を警戒してか、沿線のあちこちで、冬を越すための雪囲いが始まっていた。
東京を出てから四日。
五能線の気動車に揺られ、律が降り立ったのは、日本海に面した寒村の無人駅の驫木だった。
一両編成の列車が遠ざかると、ホームには波の重い唸りと、吹きつける潮風の音だけが取り残された。
線路のすぐ向こうは、見渡す限りの荒海だ。
灰色の白波が砕け散るたび、巻き上げられた塩霧がコートの襟を濡らしていく。
風は容赦なく熱を奪い、ポケットの手がかじかみ始めていた。
手描きの地図に記された、最後の地点。
『10.29』の文字と、小さな十字の印。
紀行本『奥羽・信濃の秋を歩く』の余白には、薄い鉛筆の筆跡でこう書き添えられていた。
『波の音だけが響く板張りの駅舎。ここから先には、もう鉄路はない。海へ還るように、秋は尽きる』
律は、ホームの隅にぽつんと佇む木造の待合室の引き戸を開けた。
ガタピシと鈍い軋みを立てて戸を閉めると、荒ぶる風の音が少し遠のいた。
六畳ほどの土間には、ペンキの剥げた木製ベンチと小さな時刻表。
それから、訪れた旅人が思い思いに書き残す『駅ノート』が棚に一冊置かれているだけだった。
板壁の隙間からすきま風が細く鳴り、窓ガラスには白く塩がこびりついている。
三十年前の十月二十九日。
あの二人は、間違いなくこの小さな箱の中にいたはずだ。
律はかじかむ指を息で温めながらベンチに腰を下ろし、鞄から紀行本を取り出した。
栞の文字が脳裏をよぎる。
『この旅の終わりに、私を許してください』
旅の終わり。
それは地理的な終着駅であるこの場所を指すのか、それとも二人の関係の終わりだったのか。
ふと、待合室の隅の棚に目が留まった。
埃をかぶった古いノートが数冊、無造作に重ねられている。
表紙に手書きで『旅の思い出』と記され、昭和の終わりから平成初期にかけての年号が並んでいる。
律は手袋をはめ、三十年前の秋に当たる一冊を引き抜く。
湿気を吸って波打った藁半紙の頁を、破かないよう慎重にめくっていく。
他愛ない旅の記録。
夕日を褒める言葉や、寒さを嘆く落書き。
そして、十月二十九日の頁を開いたところで、指先が止まった。
そこには殴り書きのような、乱れた筆跡の万年筆の文字があった。
青いインク。
だが、あの女性の端正な字ではない。
筆圧の強い、男性の文字だった。
『どうしてだ。切符を買って戻ってきたら、お前の姿がどこにもない。 ベンチの上に置かれたお前の手紙を読んだ。 「東京に好きな人ができた。あなたとはここまで。探さないで」 嘘だろう。そんな嘘で、俺を納得させられると思っているのか。 追分の林檎も、会津の銀杏も、あんなに綺麗だと笑ってくれたじゃないか。 俺のカメラを見てくれなかったのは、最初からこうするつもりだったからなのか。 海を見ても、波の音を聞いても、お前の名前しか出てこない。 俺を置いていくな。頼むから、帰ってきてくれ』
文字の後半は紙が水滴でふやけ、インクがひどく滲んでいた。
涙の跡だった。
日付の横には、震える筆跡で『藤堂』とだけ苗字が記されていた。
「……やっぱり、そうだったのか」
漏れた呟きが、板壁の隙間に吸い込まれていく。
二人の旅は、ここで途切れていたのだ。
切符を買いに青年が席を外した、ほんの数分の隙。
彼女は冷たい別れの書き置きだけを残し、この吹きさらしの駅から姿を消した。
『好きな人ができたから』という、一番取り付く島のない嘘を突きつけて。
青年は裏切られたと思い、絶望の底に叩き落とされたはずだ。
信州から奥羽を越え、二人の未来を信じてここまで旅を続けてきた男にとって、それは心臓を生きたままえぐられるような仕打ちだったに違いない。
だが、なぜだ。
なぜ彼女は、そこまでして彼を突き放さなければならなかったのか。
もし本当に別の男が好きだったのなら、わざわざ東京からここまで何日もかけて旅をし、二人きりで逃避行を共にする理由がない。
会津で拾ったリンドウの押し花。
『悲しんでいるあなたを愛する』という花言葉。
そして、『私を許してください』という痛切な祈り。
彼女のついたその嘘の裏側に、どれほどの覚悟と苦痛が隠されていたというのか。
律は膝の上にある『奥羽・信濃の秋を歩く』をじっと見つめた。
手描きの地図の栞が挟まれていたこの本。
女性は東京へ戻り、家庭を持ち、生涯この本を大切に手元に残し続けていた。
娘の証言によれば、母は北の話題を極端に避けていたという。
もし単なる気まぐれの裏切りなら、こんな本などとっくに処分していたはずだ。
三十年間、手元に置き続ける理由がない。
(まだ何かある。彼女がこの本に遺したものが、どこかにあるはずだ)
古本屋としての勘が、律の指先を動かした。
律は手袋越しに、紺色のクロス装の表紙を丹念になぞった。
背表紙、角、そして見返しの遊び紙。
古書を扱っていると、稀に表紙と見返しの間に重要な書類や私信を隠す愛書家に出会うことがある。
表紙の裏側、前見返しの糊付けされた部分に指を滑らせていくと、かすかな違和感に触れた。
右上の角、糊が経年劣化で湿気を吸い、わずかに浮き上がっている。
律はポケットから薄刃の竹ベラを取り出し、紙を傷つけないよう、息を詰めてその隙間に差し入れた。
パリ……と、三十年前のデンプン糊が剥がれる乾いた音がした。
隙間から、二つ折りにされた極薄の美濃和紙がするりと滑り出てきた。
外からは決して見えないよう、表紙の芯紙と見返し紙の間に完全に封じ込められていた手紙だった。
律はかじかむ指で、その和紙を開いた。
万年筆の青いインク。
栞と同じ、けれどそれよりもずっと弱々しく、何度も途切れそうになりながら綴られた文字が、びっしりと並んでいた。
『藤堂さん。
この手紙を、あなたが読むことは永遠にありません。
読んでほしくないからこそ、私はこの本を東京へ持って帰ります。
今、駅のベンチで、切符を買いに行くあなたの広い背中を見送りました。
冷たい書き置きを残して消える私を、どうか心の底から憎んでください。
裏切り者だと罵り、私のことなど汚らわしい記憶として捨て去ってください。
本当のことを言えば、あなたは絶対に私を置いていかないでしょう。
私の手を握りしめ、あなたの夢を、あなたの未来をすべて捨てて、私の介護にその輝かしい人生を捧げてしまうでしょう。
あなたはそういう人だから。
誰よりも優しくて、誰よりも世界を愛している人だから。
先月、医師から宣告を受けました。
私の網膜を冒している病は、あと半年もすれば、私の視界からすべての光を奪い去るそうです。
治療法はなく、私はただ暗闇の中で生きていくことしかできません。
恐ろしかった。
明日が見えなくなることよりも、あなたの足首に、一生解けない重い鎖として私が巻き付いてしまうことが、何よりも恐ろしかった。
あなたは、写真を撮らなければならない人です。
光を追いかけ、世界の美しさを切り取るべき人です。
そんなあなたのファインダーを、私の病の影で曇らせるわけにはいかないのです。
だから、最後にわがままを言いました。
私の目が、まだ辛うじて世界の色を捉えられるうちに、あなたと一緒に秋を歩きたかった。 追分の林檎の赤を、会津の銀杏の黄金色を、奥羽の山々の紅葉を、あなたの隣で見たかった。
そして、それらをフィルムに焼き付けるあなたの横顔を、私の失われゆく網膜に、一生分の光として焼き付けておきたかったのです。
あなたのカメラを見つめられなくて、ごめんなさい。
レンズを見つめてしまったら、私の瞳から溢れ出す涙が、すべてを告白してしまうと分かっていたから。
写真の中に、私の絶望を残したくなかったから。
あなたが撮るべきなのは、絶望に暮れる私の顔ではありません。
私たちが一緒に歩いた、この美しい秋の風景です。
どうか、前を向いてください。
私を憎んで、私を忘れて、あなたの愛するカメラを握りしめて、遠くへ行ってください。
あなたのファインダーの向こうに、これからも美しい光が溢れ続けますように。
私の大好きな、あなたの秋が、永遠に色褪せませんように。
さようなら、私の光。
私を許してください』
手紙の文字が、律の視界の中で滲んで歪んだ。
目元が熱く焼けるようだった。
「……そうだったのか」
掠れた声が、吹きすさぶ風の中にこぼれ落ちた。
失明の宣告。
女性は、光を失う未来を一人で背負い込む覚悟を決めていたのだ。
将来ある写真家の夢を奪わないために。
自分の介護という絶望に彼を巻き込まないために。
「好きな人ができた」という、彼にとって最も残酷で、それゆえに自分を諦めさせられる唯一の嘘をついて、この駅から姿を消した。
栞に書かれた『私を許してください』という言葉の本当の意味。
それは、裏切りへの謝罪などではなかった。
彼を愛しているからこそ、彼の一番愛したものを守るために、彼を深く傷つける嘘を選んだこと。
その身勝手さを、彼に、そして自分自身に詫びるための、命を絞り出すような祈りだったのだ。
彼女は二度と北の話を口にせず、テレビに東北が映るたびに席を立ったのは、未練を押し殺すためであり、彼と見た秋の光があまりにも眩しすぎたからに他ならない。
ガタガタと、待合室の引き戸が激しく鳴った。
日本海から吹きつける強風が、霙を窓ガラスに叩きつけている。
律は手紙をそっと胸元へ収め、ゆっくりと立ち上がった。
青年、藤堂は、どうなったのだろうか。
あのノートに残された、血を吐くような絶望の叫び。
彼はあの日、この駅で彼女に置き去りにされ、その後どんな人生を歩んだのか。
彼女が命懸けで守り抜いた青年のファインダーは、本当に今も、世界の光を捉え続けているのだろうか。
「確かめなきゃいけない」
律は紀行本と栞、そして和紙の手紙を鞄の奥深くに大切にしまった。
古本屋の仕事は、誰かが遺した時間の抜け殻を、次の誰かへ手渡すことだ。
三十年間もの間、暗闇の中に封じ込められていたこの祈りを、届けるべき人間が一人だけいる。
遠くで、折り返しの気動車の警笛が、冬を孕んだ木枯らしを切り裂いて響いた。
律は待合室の扉を開け、荒れ狂う海の風の中へと、迷いなく踏み出した。




