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古本屋の栞は北を指す  作者: 間宮 優


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第5話:ファインダーの向こうの秋

東京へ戻った翌朝、街は底冷えのする空気に包まれていた。

路地を行き交う人は誰もが肩をすぼめ、足早に吐く息を白く散らしている。

津軽の寒村から持ち帰った冷気がまだ体の奥に残っているのか、律の手足はなかなか温まらなかった。


店に戻った律がまず最初にとりかかったのは、彼女が東京へ戻った後の情報。

そして、あの駅ノートにあった『藤堂』という筆跡を手がかりにした身元の調査だった。


三十年前、一眼レフを携えて信州から東北を歩き、将来を期待されていた青年。

手がかりは少なくなかった。

手がかりは案外、身近なところにあった。

古書組合の目録や写真年鑑のバックナンバーを辿っていくと、ひとつの名前に突き当たった。


藤堂(とうどう) 彰一郎(しょういちろう)


国内外で数々の賞を受賞し、今や日本を代表する風景写真家のひとりとして知られる人物。

彼が四半世紀にわたって発表し続けている主要なテーマは、ただひとつだった。

『北の光景』それも、東北や信越の山々が色づく「秋」ばかりを切り取った作品群だ。


さらに、奇妙な巡り合わせがあった。

藤堂の事務所の告知によれば、ちょうど今週、銀座の路地裏にあるギャラリーで回顧展が開かれているという。


ポスターの片隅には 『秋の文芸展2026協賛特別企画・藤堂彰一郎 回顧展<光の足跡>』の文字が。


律は鞄にあの紺色のクロス装『奥羽・信濃の秋を歩く』と、表紙の裏から取り出した薄い和紙の手紙、そして青いインクの栞を収め、店の鍵を閉めて銀座へと向かった。


ギャラリーの中は、街の喧噪が嘘のように静まり返っていた。

柔らかな明かりに照らされた白い壁に、大小の写真が整然と並んでいる。

足を踏み入れた瞬間、律は息を呑んだ。


一枚のパネルの前で足が止まる。


浅間山麓の斜面を埋め尽くす、燃えるような林檎畑。

木漏れ日を浴びて、つややかに光る紅い実。

その隣には、会津の古刹で舞い散る大銀杏。

西日に灼かれ、まさに黄金の雨となって石段を埋める光の粒。

そして、冬を間近に控えた日本海の荒波。

鉛色の空と白波の狭間で、閑散とした小さな木造駅舎の屋根を照らす、ひとすじの落日。


すべて、あの手描きの栞の地図が指し示していた場所だった。

三十年前、女性が視力を失う直前に焼き付けようとした光景の数々が、寸分違わぬ構図と、息を呑むような鮮烈さでそこに甦っていた。

だが、どの写真を見ても、人の姿はどこにも写っていない。

ただひたすらに、誰もいない秋の風景だけが、祈りのように切り取られていた。


「何か、気になるところでも?」

背後から、低く掠れた声がした。


振り返ると、ジャケットを着た初老の男性が立っていた。

白髪交じりの髪を無造作に撫でつけ、彫りの深い顔立ちには年月を刻んだ皺が刻まれている。

けれど、その瞳の奥にある光は、三十年前に信州のカフェの軒先で笑っていたあの青年の面影そのものだった。


写真家、藤堂彰一郎本人だった。


「……先生の写真には、人がひとりも写っていないのですね」


思わず口をついて出た言葉に、藤堂は、自嘲するように口元を緩めた。


「昔はね、人を撮るのが好きだったんですよ。世界で一番好きな人の笑顔を、ずっとフィルムに残したいと思っていた時期がありました。……ですが、三十年前にその資格を失いましてね。以来、私は風景ばかりを撮っています」


「資格を、失った……?」


「ええ。ある秋の終わりに、その人に捨てられましてね。『好きな人ができたから』と、書き置きひとつ残されて。……それ以来、私は人間を信じてファインダーを覗くことができなくなった。だから、あの日彼女と歩いた秋の景色ばかりを、亡霊のように追いかけてシャッターを切っているだけなんですよ」


淡々とした語り口の底に、三十年経っても消えない痛みが横たわっているのが分かった。

裏切られたという疑念と、忘れられない未練。

ふたつの感情に引き裂かれたまま、この男は重いカメラを抱えて北の山野を彷徨い続けてきたのだ。


「藤堂先生」


律は静かに名乗り、持ってきた鞄を開いた。


「私は下町で古本屋を営んでいる、槙野という者です。……ある女性の遺品の中に遺されていたこの本と手紙を、あなたにお渡ししたくて伺いました」


取り出された『奥羽・信濃の秋を歩く』を見た瞬間、藤堂の呼吸が止まった。

血の気がさっと引いていく。


「それ、は……」


「奥羽の驫木駅の待合室で、あなたに別れを告げた女性の持ち物です。彼女は先月、亡くなりました」


律は本を開き、挟まれていた青いインクの栞を差し出した。


『この旅の終わりに、私を許してください』

震える筆跡を目にした瞬間、藤堂の指先が強張った。


「彼女の……彼女の字だ……。なぜ、君がこれを持っているんだ……?」


「彼女はあなたを裏切ってなどいませんでした」


律はまっすぐに藤堂の瞳を見て、言葉を紡いだ。


「あの旅の直前、彼女は失明の宣告を受けていたんです。あと半年で、光を失うと」


「……何だと……?」


「真実を告げれば、あなたが写真家の道を捨てて、一生を自分の介護に捧げてしまうと分かっていたから……彼女は、嘘をついたんです。あなたに自分を諦めさせ、前を向いて写真を撮り続けさせるために」


藤堂の唇が小刻みに震え、言葉を失っていた。

その動揺をまっすぐ受け止めながら、律は静かに、けれど逃れようのない現実を続けた。


「ですが、運命はあまりにも皮肉でした。東京へ戻った後、確立されたばかりの最新の手術を家族に説得されて受けたそうです。そしてその手術が奇跡的に成功し、彼女は……光を失わずに済んでしまった」


「……え?」

藤堂の喉から、掠れた声が漏れた。


「あいつの、目は……見えていたのか……? 光を、取り戻したのか……?」


「はい。失明を免れました。……けれど、だからこそ彼女は、二度とあなたの元へ戻れなくなってしまったんです」


律の胸にも、冷たい痛みが走る。


「あんな酷い嘘であなたを突き放し、傷だらけにして置き去りにしたのに……『目が見えるようになったから戻ってきました』なんて、言えるはずがなかった。あの人の真っ直ぐで不器用な気性では、そんな身勝手な振る舞いは許せなかったのだと思います。彼女は親の勧めた堅実な男性とお見合いをして結婚し、町工場の帳簿をつける妻として、生涯を真面目に、静かに全うされました。……自分のついた取り返しのつかない嘘と、残ってしまった光の重さを、たった一人で背負いながら」


そう語りながら、律は確信していた。

彼女が家族の前で北の話題を避け、テレビに東北が映るたびに台所へ逃げ込んでいた本当の理由。

それは、彼と見た景色があまりに眩しすぎたからだけではない。

写真家として大成していく彼の活躍を、自分が手放したはずの「目」で見つめ続けることへの、耐えがたい痛みと罪悪感があったからだ。


律は二つ折りにされた美濃和紙を差し出した。

表紙の芯紙と見返しの間に三十年間隠されていた手紙を、藤堂の手のひらの上へ置いた。


「手紙に書いてありました。『あなたのファインダーを、私の病の影で曇らせるわけにはいかない』と。『どうか前を向いて、あなたの愛する秋の光を撮り続けてほしい』と」


「…………」


「彼女はずっと、あなたに嘘をついた罪を許してほしいと祈りながら、あなたの写真を、どこかで見守っていたんだと思います」


藤堂は立ち尽くしたまま、震える手で和紙を開いた。

静まり返ったギャラリーに、紙の擦れる微かな音だけが響く。

三十年の歳月を経て、届くはずのなかった手紙の文字を、写真家は一文字ずつ、貪るように目で追っていった。


――あなたのファインダーの向こうに、これからも美しい光が溢れ続けますように

――さようなら、私の光

――私を許してください


手紙を読み終えた瞬間、藤堂の喉から押し殺した嗚咽が漏れた。

両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるようにして肩を震わせる。

大判の写真パネルに囲まれた展示室の真ん中で、老写真家が、まるで迷子の子供のように声を詰まらせて泣いていた。


「……あいつは、馬鹿だな」


濡れた指の隙間から、絞り出すような声が零れ落ちる。


「本当に……とんでもない大馬鹿野郎だ……。戻ってくればよかったじゃないか……。どんな顔をして戻ってきたって、俺が受け止めないはずなんて……なかったのに……」


藤堂は涙で濡れた顔を上げ、周囲に飾られた自分の作品を見渡した。

赤く実る林檎、黄金色の大銀杏、荒波を照らす夕陽。


「俺が三十年間、秋の景色ばかりを追いかけてきたのは……あの日、お前と一緒に見た色を、一度も忘れられなかったからなのに……」


裏切りの記憶として刻まれていたはずの旅路が、音を立ててほどけ、別の形を結び直していく。

男が撮り続けてきたすべての写真は、彼女への当てつけでも、未練の亡霊でもなかった。

彼女が最後に遺していった「光を撮り続けてほしい」という祈りを、彼自身の魂が、無意識のうちに守り続けてきた証だったのだ。

「先生」


律はそっと声をかけた。


「あなたのファインダーの向こうには、いつも彼女がいたのですね」


藤堂は手紙を胸に強く押し当て、何度も、何度も頷いた。

こぼれ落ちた涙が、美濃和紙の青いインクを、三十年越しの真実とともに静かに滲ませていた。


数日後。


下町の古書店『槙野堂』の軒先には、初冬の乾いた風が吹き抜けていた。

街路樹の銀杏はすっかり葉を落とし、アスファルトの隅に黄色い吹き溜まりを作っている。冬の訪れを告げる澄んだ青空が、高く広がっていた。


律は、新たに買い取ってきた古い文庫本の山に手を伸ばした。

以前のように、ただ傷みを探して機械的に仕分けることは、もうしない。


ページをめくる指先で紙の手触りを確かめ、挟まれた一枚の古い栞や、鉛筆の走り書きにそっと目を留める。


本を開くということは、誰かの時間に触れるということだ。

誰かが生きて、息をして、誰かを想いながら閉じた時間の抜け殻。

それを預かり、埃を払い、次の誰かの手へと手渡していく。


祖父が守り続けてきたこの埃っぽい仕事の、静かで確かな誇りが、律の胸の奥に小さな灯を宿していた。

カラン、と澄んだベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


顔を上げると、ガラス戸から柔らかな冬の日差しが差し込み、入ってきた客の足元を白く照らしていた。

律は手元の文庫本に丁寧に新しい栞を挟み、穏やかに笑って立ち上がった。

谷中の古書店に、また新しい物語のページが、静かに開かれようとしていた。

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