第3話:銀杏の落葉と、すれ違う視線
信州を後にした律は、長野から新潟を経て、磐越西線の快速列車で会津若松へと入った。
向かうにつれて季節の歩みは目に見えて早くなり、車窓を流れる山肌は、信州の淡い色づきとは違って燃え殻のような濃い赤と山吹色に沈んでいた。
盆地の底に広がる街には、早くも初冬を思わせる冷気が淀んでいる。
十月二十五日。
手描きの地図にある、二つ目の印を追う。
栞の裏には、震える筆跡で書きつけられていた。
『10.25 会津・鶴ヶ城の裏 黄金色の雨が降る坂道、午後四時の鐘』
紀行本『奥羽・信濃の秋を歩く』の該当頁を開くと、城の南東、寺町を記した段落に赤鉛筆の線が引いてあった。
『城の東南、小高い丘の麓に佇む古刹へ続く石段は、秋の極みに達すると一面の黄金色に敷き詰められる。樹齢五百年を数える銀杏の巨木が落とす葉は、あたかも秋風に舞う黄金の雨の如し。夕刻四時の鐘が鳴る頃、参道は落日の光に灼かれ、幽玄の境地を見せる』
午後三時半。
堀沿いの松林を抜け、乾いた落ち葉を踏みながら坂を登りきると、不意に視界が開けた。
古びた山門の向こうに、天を衝くような大銀杏が立っている。
枝先から風が抜けるたび、無数の黄葉がきらきらと西日を透かして舞い散っていた。
確かに紀行本が言う「黄金色の雨」そのものだった。
石段の脇に、腰掛けを並べた小さな茶屋がひっそりと暖簾を掲げている。
軒先で揺れる木札には 『名物・田楽味噌』とあった。
引き戸を引くと、炭火と焦げた味噌の香ばしい匂いが鼻をついた。
「いらっしゃい。寒かったろう、中へお入り」
火鉢の炭をつついていた初老の女将が、湯気の立つほうじ茶を運んでくれた。
客のいない店内に、どこか遠くの鐘の音が低くゴォンと響く。
腕時計に目をやると、ちょうど午後四時を回ったところだった。
律は茶を一口すすり、鞄から『奥羽・信濃の秋を歩く』と栞を取り出した。
「あの、すみません。少しお尋ねしたいことがあるのですが」
「はい、何だい?」
「この本と栞を手がかりに、三十年ほど前にここを訪れた人たちの足跡を探していまして。……十月の二十五日、ちょうどこの時間帯に、大きなカメラを持った青年と、若い女性の二人がここに立ち寄った記録や記憶はありませんか」
女将は目を瞬かせ、差し出された栞を見つめた。
「三十年前……私が店に出始めた頃かねぇ。さすがに昔すぎてねぇ……」
首を傾げる女将に、信州のカフェでスマートフォンに残した写真を見せると、女将は息を呑み、眼鏡の位置を直した。
「……ああ! この二人、覚えてるよ。覚えているとも」
「本当ですか」
「忘れようがないよ。この男の子、うちの縁台にカメラの筒を何本も並べてね、汗をかきながら夢中で銀杏を撮ってたんだよ。男前だったけど、それ以上に、隣のお嬢さんが息を呑むほど綺麗でね……まるでお人形さんみたいに白くて儚げで、見惚れてしまったのを覚えてるよ」
女将の記憶は鮮明だった。
あの日の大銀杏は、今日と同じように見事な散り際だったという。
「二人とも、仲が良さそうでしたか?」
律が尋ねると、女将の表情にふっと影が差した。
「仲が悪かったわけじゃないよ。男の子の方はもう、彼女のことが好きでたまらないって様子でね。『この光がいい』『この木の下に立ってくれ』って、夢中でシャッターを切っていたよ。彼女を世界で一番綺麗に撮ってやるんだ、って息巻いてね。……ただね、妙だったんだ」
「妙、とは?」
「そのお嬢さん、男の子がカメラを向けるたびにね、すっと目を逸らすんだよ」
女将は湯呑みを両手で包み、当時の光景を思い出すように宙を眺めた。
「最初は照れているのかと思ったのさ。でも違った。彼が『こっち見て笑ってくれ』って頼んでも、頑なにカメラを見ようとしない。木のてっぺんを見上げたり、足元の落ち葉を見つめたり……決して、真正面からカメラを見なかったんだ。横顔や、俯いた姿ばかり撮らせていたね」
「カメラから、目を逸らしていた……」
「それだけじゃないよ、彼が『宿へ戻ったら現像の準備をする』って楽しそうに話しかけても、彼女はただ力なく笑うだけでね。あんなに愛されているのに、まるでお葬式にでも出ているような目をしていて……それが妙に引っかかって残っていたんだよ……」
女将に礼を言い、律は再び外へ出た。
西日はすでに山の端へ隠れ、黄金色だった石段は急速に青藍色の薄闇へ沈みつつあった。 律は石段の端に腰を下ろし、紀行本を開いた。
なぜ、彼女は愛する男のカメラから目を逸らし続けたのか。
駆け落ちの旅で、将来ある写真家が自分を撮ろうとしているのに、なぜ視線を拒んだのか。 旅の記録として笑った顔を残そうとするのが自然なはずだ。
だが、彼女は視線を逸らし続けた。
(まるで……自分の顔が、写真という『未来に残る記録』になることを拒んでいるみたいに)
風が抜け、頁がパタパタと音を立ててめくれた。
その時、会津の章と次の米沢の章の喉元から、乾いた微かな音がした。
見ると、見開きの奥深くの隙間に何かが挟まっている。
律は指先を滑り込ませ、そっと引き抜いた。
押し花だった。
三十年の歳月を経て、薄紙のように脆く透き通った、濃い紫色の小さな花びら。
独特の釣鐘型の形状と、細く裂けた欠片。
「……リンドウか」
秋の山野に咲く青紫の花。
神保町の古書市で目を通した植物図鑑の記述が脳裏をかすめる。
漢方では苦い生薬「竜胆」として知られ、古くから病に寄り添う花とされてきた。
そして、その花言葉。
『悲しんでいるあなたを愛する』
『正義』
『誠実』
そして、もう一つ
『寂しい愛情』
頭の中で、散らばっていたピースが音を立てて噛み合っていく。
―― 彼には、最後まで笑っていてほしい。
―― この旅の終わりに、私を許してください。
―― カメラのレンズを見つめようとしなかった視線。
―― 本に遺された、リンドウの押し花。
「病気、だったのか……?」
呟いた声が、風にかき消された。
もし彼女が当時、治らない病や余命の宣告を受けていたのだとしたら……
あるいは、光を失うような、彼と未来を共に歩めなくなる宣告を突きつけられていたのだとしたら……
青年は何も知らなかった。
ただ二人で生きていく未来を信じてシャッターを切っていた。
けれど、彼女は知っていたのだ。
自分には彼と迎える「明日」がないことを。
だから、レンズをまっすぐ見つめられなかったのではないか。
正面から見つめれば、自分の瞳の奥にある絶望と別れの気配を、写真家である彼の鋭い目が見抜いてしまう。
何より、自分が去った後、彼がその写真を見るたびに、永遠に過去の亡霊に縛られてしまうのを恐れたのではないか。
残された時間を知っていたからこそ、彼女はこの旅を「最後の思い出」として選んだ。
けれど、それは愛の逃避行などではなく、彼を自分の呪縛から切り離し、一人で生きる道へ放り出すための、あまりにも残酷な旅路だったのではないか。
頭上で、カラスの鳴き声が山あいに響いた。
山門の向こう、黄金の雨を降らせていた大銀杏は、すっかり陽が落ちて黒々とした影の塊へと姿を変えていた。
風が石段を駆け上がり、足元の落ち葉を一斉に巻き上げた。
栞の裏の略地図を見る。
会津の次、米沢の白布温泉を経て、線は北の果て青森の海へと向かっている。
日付は十月二十九日、小さな十字の印が記してある。
「許してください、か……」
それは裏切りへの謝罪ではない。
愛していながら、彼に一生消えない嘘をついて姿を消そうとしていた、自分自身の身勝手さに対する懺悔だったのか。
律は立ち上がり、暗くなった石段を、乾いた葉を踏みしめながら下りていく。
真相へ近づくたびに、三十年前の秋の空気が、冷たく胸の奥へ染み込んでくるようだった。
次は、米沢の峠を越え、北の海へ。
彼女が選んだ「ささやかな嘘」の最後の瞬間に向かって、律の足取りは確かな重みを持って速まっていった。




