第2話:りんごの香りと、最初の暗号
上野を発った新幹線を軽井沢で降り、しなの鉄道の二両編成の普通列車に乗り換える頃には、車窓の空気の色が東京のそれとはまるで違っていた。
線路の両脇に広がる浅間山麓の斜面は、燃え立つような朱と山吹色のモザイク模様に染まりきっている。
透き通るような秋の青空の下、収穫期を迎えた林檎畑がどこまでも連なり、枝もたわわに実った紅い果実が、窓の隙間から甘酸っぱい香りを送り込んでくるようだった。
土曜の昼前。
行楽客でごった返す軽井沢を離れ、律が降り立ったのは信濃追分の小さな木造駅だった。
改札を抜けると、ひやりと冷たい高原の風が頬を撫でる。
律はマフラーに顎を埋め、コートのポケットから昨夜引き取ったばかりの『奥羽・信濃の秋を歩く』を取り出した。
滑り落ちないよう挟み直した厚紙の栞。
その裏面に描かれた細い万年筆の略地図には、最初の地点としてこう記されていた。
『10.23 軽井沢・追分 赤い実のなる喫茶店、午後』
紀行本の該当ページを開くと、中山道と北国街道が交差する追分宿について書かれた段落に、赤鉛筆で線が引かれている。
『分去れの碑を過ぎ、線路に沿って古い林檎園を抜けると、赤い屋根の小さな茶房がある。庭先の実りが、旅人の渇きを癒やす』
「……三十年前の喫茶店か」
律はスマートフォンの地図アプリを開いた。
だが、画面上にそれらしき古い茶房の名は見当たらない。
駅前ロータリーの観光案内所の引き戸を開けると、ストーブに火を入れたばかりの初老の男性が顔を上げた。
「すみません。三十年ほど前、この近くに『赤い実のなる喫茶店』というような名前か、あるいは林檎の木が庭にある喫茶店があったかご存じないですか?」
「赤い実のなる……ああ、それなら『茶房・林檎館』のことじゃないかな」
男性は眼鏡の奥の目を細め、懐かしそうに頷いた。
「線路沿いの林檎畑の端にあった古い洋館風の店だよ。ただね、先代のマスターが亡くなって、十数年前に畳んじまってね。……いや、待てよ。確か去年の春あたりに、そのお孫さんが東京から戻ってきて、建物を改装して新しくカフェを開いてたはずだ。『カフェ・ポム』って言ったかな。あそこなら、昔の面影も少しは残っているかもしれんよ」
教えられた道を辿り、色づいた落葉松の並木道を抜けて歩くこと二十分。
錆びた線路の柵の向こう、赤く実った林檎の木々に囲まれるようにして、白壁に三角屋根の平屋が建っていた。
庭の隅には、先代の店のものだろう、「茶房 林檎館」と右から左へ彫られた苔むした木製の古看板が、記念碑のようにひっそりと据えられている。
チリン、と澄んだカウベルの音を鳴らして扉を押すと、焙煎された珈琲豆の香ばしい匂いと、焼き林檎の甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から声をかけてきたのは、律と同年代とおぼしきエプロン姿の若い女性だった。
律はカウンターの端の席に腰を下ろし、ブレンド珈琲とタルトを注文した。
客は律のほかに、窓辺で文庫本を読んでいる老婦人が一人いるだけだった。
運ばれてきた珈琲を一口すすり、律はおもむろに文庫本と栞をテーブルの上に置いた。
「あの、不躾なことをお伺いしてもいいですか」
「はい、何でしょう?」
「ここが『林檎館』だった頃のことなんですが……祖父の古本屋で本を整理していたら、三十年前にここを訪れたらしい人のメモが見つかりまして」
律が厚紙の栞を差し出すと、先代の孫である佐伯という名の店主の女性は、不思議そうにそれを手に取った。
「三十年前の十月二十三日……祖父が店をやっていた頃ですね。母から聞いたことがあります。あの頃はちょうど新幹線ができる前で、碓氷峠を越えてくる列車旅のお客さんがたくさん立ち寄ってくださったって」
「その頃の記録……例えば、お客さんの名簿や旅のノートのようなものは残っていないでしょうか。本に『私を許してください』と書かれていて、どうしても気になってしまって」
佐伯は「私を許してください」の文字に目を留め、かすかに息を呑んだ。
「……少し待っていてくださいね」
彼女は店の奥の納戸へ消え、数分後、埃をかぶった分厚い革表紙のスクラップブックを一冊、抱えて戻ってきた。
「祖父はマメな人で、お客さんからいただいた手紙や、旅ノートの書き込みを年代ごとにスクラップして残していたんです。ちょうどこの冊子が、平成初期の頃のものですね」
律は手袋をはめ、佐伯の許可を得て頁をめくった。
セピア色に変色した写真や、切符の半券、手書きの感想メモが丁寧に貼り付けられている。 そして、三十年前の十月二十三日の日付が記されたページを開いた瞬間、律の指先がぴたりと止まった。
店の看板の前で撮られた、一枚のカラー写真。
写っていたのは、二人だった。
ざっくりとした白いニットを着た若い女性と、肩から重そうな一眼レフカメラを二台提げた、背の高い青年。
女性の顔立ちは、昨日『槙野堂』を訪れた娘の面影を確かに宿していた。
色白で、少し伏し目がちだが、息を呑むほど整った顔立ちをしている。
隣の青年はボサボサの黒髪に無骨なジャケットを羽織り、照れくさそうにレンズの向こうの先代マスターへ笑いかけていた。
二人は肩を寄せ合い、女性の手は青年の腕にそっと添えられている。
「……二人、だったのか」
思わず声が漏れた。
遺品を持ってきた娘は、母の独身時代の足跡など何も聞かされていなかった。
栞の筆跡が母のものだと知った律自身、三十年前の秋に若い女性が一人で北へ向かったのだと、どこかで思い込んでいたのだ。
だが、三十年前の十月、彼女は決して一人ではなかった。
間違いなくこの青年と一緒にいたのだ。
「あ……この写真、私も見覚えがあります」
佐伯が写真の横に添えられた先代マスターの細い万年筆の文字を指差した。
『東京から来た若い二人。青年は将来を嘱望された写真家志望とのこと。どこか切迫した様子で、まるで駆け落ちのようだった。二人の前途に幸多からんことを』
「祖父のメモにも書いてありますね。駆け落ち……やっぱり、そうだったんでしょうか」
佐伯の言葉に、律は静かに息を呑んだ。
昭和の終わりから平成の初め。
結婚前、二十代前半だった女性の秘められた逃避行。
娘が「母は父とお見合い結婚をして、絵に描いたような真面目な生活をしていた」と話していたことを思えば、それは彼女の生涯でたった一度きりの、燃えるような恋の逃避行だったのではないか。
だが、
それなら、なぜあの栞に「私を許してください」などという痛切な言葉を残したのか。
二人で新しい人生を始める誓いの旅だったのだとすれば、その祈りはあまりにも不吉で、暗い影を落としすぎている。
「……あれ?」
佐伯が写真の下にクリップで留められていた、黄ばんだ紙片に気づいて声を上げた。
それは、当時の『林檎館』の注文伝票だった。
ブレンド二つ、アップルパイ二つ。
ボールペンの素朴な字で書かれた伝票の裏側に、折りたたまれた小さなメモ用紙が挟み込まれていたのだ。
「これ、祖父の字じゃないですね……」
律は慎重にそのメモを開いた。
青いインク。
震えるような、けれど芯のある端正な筆致。あの栞の文字と、完全に一致していた。
『マスターへ。無理を言って申し訳ありません。 もし、東京から私の家の人や、警察から問い合わせがあったとしても、私たちがここへ来たことは内緒にしてください。 そして、このメモのことは、どうか彼には見せないでください。 この旅は、私のわがままで始まった旅です。 彼には、最後まで笑っていてほしいのです』
彼には、最後まで笑っていてほしい。
文字の末尾は、水滴で滲んだように薄くなっていた。
涙の跡だろうか。 律の背筋を、冷たいものがすっと撫でていく。
違和感の正体が、輪郭を持ち始める。
彼女は追っ手を恐れていた。
それは駆け落ちなら当然の心理かもしれない。
だが、
「彼には見せないでください」
「私のわがままで始まった」
「最後まで笑っていてほしい」
という言いまわしは、どう考えても未来を誓い合った二人の言葉ではなかった。
青年は、彼女と一緒に逃げているつもりだった。
しかし、女性の側は最初から知っていたのだ。
この旅に、二人で暮らす未来など用意されていないことを。
この旅の終わりに、二人を永遠に引き裂く何かが待っていることを、彼女一人だけが予期していた。
「……彼に隠して、何をしようとしていたんだ」
呟きに答える者はいない。
ただ、窓の外を吹き抜ける秋風が、林檎の梢をカサカサと鳴らすだけだった。
「あの、お客さん」
佐伯が心配そうに律の顔を覗き込んだ。
「その方たち、この後どうなったんでしょうね……」
「わかりません。でも……彼女は一人で東京へ戻り、家庭に入って、生涯この旅のことを口にしなかったそうです。……彼を残して」
佐伯は息を呑み、写真の中の寄り添う二人を見つめ返した。
秋の柔らかな光の中で、青年はあんなにも無防備に笑っているのに。
律は伝票のメモをスマートフォンで撮影し、スクラップブックを丁寧に閉じて佐伯に返した。
珈琲を飲み干し、代金を支払って店を出る。
庭先に出ると、冷え込んできた夕方の風に乗って、甘い林檎の香りが鼻腔をくすぐった。 ポケットの中の栞を取り出す。
裏面の地図に記された、次の目的地。
『10.25 会津・鶴ヶ城の裏 黄金色の雨が降る坂道、午後四時の鐘』
信州から、さらに北へ。
二人は何を求めて東北の山を越えようとしたのか。
そして、なぜ彼女は愛する青年の隣で、一人きりで「終わりの日」を数えていたのか。
古本屋の青年の胸の奥で、ただの好奇心だったはずの思いは、三十年前に置き去りにされた真実を掬い上げたいという、切実な渇望へと変わりつつあった。
遠くで、しなの鉄道の上り列車の警笛が、夕暮れの空に長く尾を引いて響いた。
律はコートの襟を立て、駅へと続く坂道を早足で下り始めた。




