第1話:挟まれた祈りと、手描きの地図
十一月も半ばを過ぎると、夕暮れは駆け足でやってくる。
路地に面した引き戸のガラスが、傾いた西日を映し出していた。
東京の下町、谷中の外れにひっそりと佇む古書店『槙野堂』の店内には、古い紙と埃、それに微かな防虫香の匂いが漂っている。
店主である槙野律は、丸椅子に浅く腰掛け、黙々と検品作業を続けていた。
現在、二十六歳。
大学を卒業して就職した中堅の広告代理店を二年足らずで辞め、三年前に他界した祖父の店を継いだ。
本が好きでたまらなかったわけじゃない。
ただ、数字と納期に追われて言葉を切り売りする毎日に疲れ果て、逃げ込むようにこの埃っぽい城の主になっただけのことだ。
「……背表紙に日焼け、蔵書印あり。三割引、と」
手元のノートに淡々と書き留め、文庫本を仕分け用の段ボール箱へ放り込む。
律にとって、本はもう何かの思索の結晶でもなければ、誰かの熱情でもない。
定価の何割で仕入れ、ネットや市場でいくらで捌くかという、ただの四角い「商品」だった。
祖父が生前、愛おしそうに背表紙を撫でていたあの手つきを、思い出すことすらなくなっていた。
カラン、と控えめなドアベルが鳴ったのは、外の光が建物の陰へ完全に沈んだ頃だった。
入ってきたのは、黒いウールのコートを着た四十代半ばほどの女性。
手には、くたびれた厚手の紙袋を二つ提げている。
「いらっしゃいませ」
「あの……本の買い取りをお願いしたくて。母の遺品を整理しているんです」
「はい。どうぞこちらへ」
ドサリと置かれた紙袋の中には、昭和四十年代から五十年代にかけての文学全集や、手芸の本などが雑然と詰まっていた。保管状態はお世辞にも良くない。
茶色い染み、湿気を吸ってページが波打っているものも目立つ。
「少しお時間をいただきますが、よろしいですか」
「ええ、構いません。処分に困っていた古いものばかりですから、値段がつかないなら引き取ってもらえるだけで助かります」
女性は申し訳なさそうに頭を下げた。
律は手袋をはめ、一冊ずつ手にとって状態を確かめていく。
大半は市場でも二束三文の端本ばかりだ。
買い取り価格は全部で数百円、下手をすれば引き取り処分代と相殺になる類のものだった。 そうして二つ目の紙袋の底に手を伸ばしたとき、指先が、少し硬い布表紙の感触に触れた。
引き抜いたのは、昭和五十八年発行の一冊。
タイトルは『奥羽・信濃の秋を歩く』
紺色のクロス装の表紙には、銀箔で枯れ野の風景が素朴に型押しされている。
著者はすでに亡くなった地方史の研究家だ。
ページの開き癖を確かめようと、律が親指でパラパラと弾いた、その時だった。
紙の隙間から、ひらりと何かが床へ落ちた。
足元に落ちたのは、色褪せた厚紙の栞だった。
「おや……」
挟まっていたのは、信州の高原から東北の山あいに差し掛かるあたりのページ。
既製品ではない。
画用紙を細長く切っただけの手作りの栞で、上部にパンチで丸穴が開けられ、細い藍色の絹糸が通されていた。
何気なく拾い上げ、裏返した律の手が止まる。
万年筆特有の、濃淡の混じる青黒いインク。
丁寧に、けれどわずかに震えるような筆致で、一行だけ書かれていた。
『この旅の終わりに、私を許してください』
許してください。
祈りなのか、懺悔なのか。
静まり返った店内で、胸の奥を細い針で突かれたような感覚がした。
栞をひっくり返す。
裏面には、定規も使わずにフリーハンドで引かれた一本の細い線で簡潔な略地図が描かれていた。
線の上には、掠れた文字で駅名と日付がいくつか並んでいる。
『10.23 軽井沢・追分』
『10.25 会津・鶴ヶ城の裏』
『10.27 米沢・白布』
そして、北へまっすぐ伸びた線の終点、海の近くらしき場所に、ひときわ濃い丸印と日付が打たれていた。
『10.29』
そこには地名も駅名もなく、ただ掠れた青いインクで、小さな十字の印だけが添えられていた。
「あの……何かありましたか?」
手を止めていた律に、女性がおずおずと声をかけてきた。
「あ、いえ。本の中に、手作りの栞が挟まっていまして。……お母様のものでしょうか」
女性は目を瞬かせ、差し出された栞を覗き込んだ。
その瞬間、彼女の表情に微かに強張ったのを、律は見逃さなかった。
「……母の、字です」
ぽつりと、女性が言った。
「母は、おとなしい人でした。私が物心ついた頃から、父の町工場の経理を手伝って、家族のために決まった時間に起きて、決まった時間に寝る……絵に描いたような真面目な生活をしていた人だったんです」
女性は栞の表面に書かれた「私を許してください」という文字を、躊躇いがちに指の腹でなぞった。
「その本、母の若い頃の荷物に入っていたものだと思います。母は二十代半ばでお見合い結婚をしたんですが、独身時代のことはほとんど話してくれたことがなくて。……ただ、家族の前で北の方角の話題が出るのを、ひどく嫌がっていました。理由を聞いても答えてくれなくて、ずっと不思議には思っていたんです」
「北の、話ですか……」
「ええ。テレビの旅番組で東北が映ると、母はいつもそっと席を立って台所へ行ってしまうんです。まるで、そこに触れてはいけないものが埋まっているみたいに」
女性は自嘲するように小さく笑い、栞を律の側へ押し戻した。
「引き取ってください。もう母も亡くなりましたし、私たちに残されても、いまさら詮索のしようがありませんから」
査定を終え、数百円の小銭と明細書を渡すと、女性は小さく頭を下げて秋の暮れゆく街へと帰っていった。
戸が閉まり、再び店内に静けさが戻る。
律は残された『奥羽・信濃の秋を歩く』と、一枚の栞を見つめていた。
栞の日付をもう一度追う。
十月二十三日から、十月二十九日。
本の奥付の発行年と、持ち主の女性が二十代前半だった頃の年代を照らし合わせると、ちょうど三十年ほど前。一九九〇年代初頭の秋だ。
律は本を開き、栞が挟まっていた前後のページに目を通す。
浅間山を望む信州の宿場町から、阿賀野川沿いに会津へ抜け、奥羽の山並みを越えて日本海へと至るルート。
紀行文の随所に、赤鉛筆で細いアンダーラインが引かれていた。
『追分の茶屋、林檎の香が風に乗る』
『鐘楼の影が石段を染めるとき、秋は深く沈む』
手描きの地図の日付と、本の記述が寸分違わず重なっている。
この本の持ち主は、ただ気まぐれに歩いたんじゃない。
この本をガイドブック代わりに握りしめ、まるで何かの儀式をなぞるように、北へ向かって移動していたのだ。
なぜ、家族に隠れてまで旅に出たのか。
なぜ、旅の終わりに「許してください」と書き残さなければならなかったのか。
そして、北の果ての十字の印で、彼女は何を終わらせたのか。
「……関係ないだろ、俺には」
口に出して呟いてみた。
自分はただの古本屋だ。
他人の過去の秘密や、三十年前の誰かの感傷に首を突っ込む義理なんてどこにもない。
明日の朝になれば、この本も他の文庫本と同じように、店の前の均一本ワゴンに放り込まれるか、ネットの在庫リストに放り込まれるだけの一冊にすぎないはずだった。
だが、指先で触れた栞の、あの掠れたインクの跡が、どうしても頭から離れなかった。
ふと、祖父が生前こぼしていた言葉が耳の奥をかすめた。
『律、本っていうのはな、ただの紙の束じゃないんだ。誰かがどこかで生きて、息をして、何かを願った時間の抜け殻なんだよ。それを次の誰かに手渡すのが、俺たちの仕事だ』
あの頃は、古臭い年寄りの感傷だと聞き流していた。
けれど、広告の言葉を切り売りして心をすり減らし、逃げるようにこの薄暗い店に潜り込んだ今の自分は、どうだ。
ただ埃を払い、記号のように値段をつけ、他人の生きた証を右から左へ受け流しているだけじゃないのか。
律は引き出しから手帳を取り出し、カレンダーを確かめた。
明日は金曜日。
週末の二日間、店を閉めたところで困る常連なんて数えるほどしかいない。
それに、来週の初めには長野と福島で小さな古書市の買い付けが入っていた。
前乗りして少し足を伸ばせば、手描きの地図が指し示すルートをなぞることは十分に可能だった。
外へ出ると、夜の冷気を含んだ秋風がすっと頬を撫でた。
街路樹の銀杏が、舗装された歩道に黄色い葉を散らしている。
律は文庫本サイズの紀行本を、コートの内ポケットに滑り込ませた。
胸元に、古い布表紙の硬い感触が伝わってくる。
三十年前の十月、一人の女性が辿り、誰にも語ることなく墓場まで持っていった北への旅路。
その足跡を自分の足で確かめてみたいという衝動が、冷え切っていた頭の奥で、静かに燻り始めていた。
「……行ってみるか」
誰に聞かせるでもなく呟き、律は『槙野堂』の入り口の札を「準備中」へと裏返した。
古本屋の青年による、三十年前の時間を辿る旅が、静かに始まろうとしていた。




