番外編 閑話:可愛げのない帳簿 ――無能な王子が、掃除係になって初めて「数字」を読んだ日
完結作『完璧すぎて可愛げがない』の番外編でございます。
今回は趣向を変えて、エルゼ様に「可愛げがない」と婚約破棄を突きつけた、あの無能な元第一王子――エドワードの視点でお届けいたします。
膝を屈し、泥を掃く側に回った彼が、ようやく一つだけ理解したものがございました。
本編をお楽しみくださった皆様への、ささやかな「決算報告」として。
手が、かじかんでいる。
俺は、凍てついた石畳に膝をつき、すり減った木のブラシで側溝の泥をかき出していた。指の節は割れて血が滲み、爪の間には黒い汚泥が詰まっている。かつて、この同じ手が、帝国の玉座へ続く大階段の手すりに、当然のように添えられていたというのに。
バルトシュタイン帝国――いや、今は「アシュバッハ直轄領」と呼ばれる、かつての我が故国。
その目抜き通りを、俺は朝から晩まで掃いている。
「おい。そこ、まだ残ってるぞ。やり直せ」
頭上から、退屈そうな声が降ってきた。
見上げれば、監督官の腕章をつけた若い男。かつて俺の前では床に額をこすりつけていた、どこぞの下級貴族の三男坊だ。今や彼は「労働査定官」という肩書を得て、俺の一日の働きに点数をつける側にいる。
「……ああ。すぐに、やる」
俺は、かつて自分が口にしたこともなかった言葉を、もう何百回となく繰り返していた。すぐに、やる。申し訳ない。お願いします。「可愛げ」とやらに満ちた、従順な言葉ばかりを。
日が落ちると、俺たち「返済労働者」は石造りの宿舎へ押し込められる。
冷えた粥を一杯。そして、寝る前に必ず一つ、課せられた務めがあった。
帳簿づけだ。
粗末な机に、薄い帳面が一冊。そこには、俺が今日返済した「負債」の額と、まだ残っている総額とが、几帳面な筆跡で記されている。
俺はランプの乏しい灯りで、その数字を睨んだ。
――負債残高、八十二万三千六百ゴールド。本日返済額、四ゴールド。
四ゴールド。
一日、背骨が軋むまで泥を掻いて、四ゴールド。
俺はその桁を、何度も指でなぞった。なぞって、ようやく理解した。この負債は、俺が死ぬまで掃き続けても、一割すら減りはしないのだと。
そして、その帳面の最後の頁には、ご丁寧に「内訳」が綴じ込まれていた。
俺がこの国に背負わせた負債の、その明細が。
『帝都魔力供給網・維持費(年額)』。
『北方交易路・関税調整による歳入(喪失分)』。
『対魔獣結界・術式更新費(緊急補填)』。
一行、一行と、目で追っていく。
どれも、見覚えのない単語ばかりだった。いや――正しくは、聞いたことはあった。エルゼが、執務室で羽ペンを走らせながら、俺に向かって淡々と読み上げていた言葉だ。あの時の俺は、その一つも、まともに聞いていなかった。
「明日の朝には、帝都の三割で魔力供給が止まりますわ」
あの女は、確かにそう言った。書類の山に埋もれ、背筋を定規のように伸ばしたまま。
俺はそれを、可愛げのない、男を見下す減らず口だと思っていた。
違った。
あれは、警告ですらなかったのだ。ただの、日報だ。彼女が一人で回していた、この国という巨大な機械の、当たり前の運転記録。
明細の数字を合計してみる。羽ペンの代わりに、震える指で。
――その総額は、俺が一生かけても返せぬ負債の、さらに何百倍にも膨れ上がった。
つまり彼女は、毎年これだけのものを、たった一人で、帳尻を合わせていた。
俺が舞踏会で美姫を抱き、酒を呷り、「真実の愛」とやらに酔っていた、まさにその夜も。彼女は冷えた執務室で、この桁を、一単位の狂いもなく、合わせ続けていたのだ。
俺は、帳面を閉じることができなかった。
窓の外、再建されつつある帝都の通りに、ぽつぽつと灯りがともり始めている。あの灯火の一つ一つにも、きっと値段がついているのだろう。誰かが払っている。かつては、彼女が。
ふと、通りの向こうに見覚えのある影が横切った。
桃色の――いや、今はすっかり色の褪せた古着を着た女。マリアンヌだ。場末の酒場で皿を洗い、客に媚びて日銭を稼いでいると聞いた。一度だけ目が合ったが、彼女は俺を見て、ただ口元を歪めた。憎しみでも、未練でもない。互いの惨めさを確認し合っただけの、空っぽの笑みだった。
俺たちの間にあった「真実の愛」とやらの決算は、とうに済んでいる。残ったのは、利息のつかない負債だけだ。
俺は、もう一度だけ、帳面の数字に目を落とした。
可愛げ、か。
俺はかつて、それを「俺の機嫌をとること」だと思っていた。微笑むこと、すり寄ること、男の愚かさに気づかぬふりをすること。
だが、今ならわかる。
この国の灯火を絶やさぬよう、誰にも気づかれぬまま、毎晩この桁を合わせ続ける――あれ以上に、報われぬ献身が、誠実が、この世のどこにあっただろう。
俺は、それを「可愛げがない」と切り捨てた。
世界で最も価値のあるものを、自分の手で側溝に捨てて、泥を掃く側に回ったのだ。
ランプの芯が、じじ、と音を立てて燃え尽きかけた。
俺は最後に、帳面のいちばん下の一行を、もう一度なぞった。そこにだけは、俺の知らぬ筆跡で、こう書き添えられていた。
『本件負債、減免・恩赦の予定なし。査定者:当領財務――』
名は、書かれていなかった。
だが、その几帳面で、一切の温度を感じさせぬ、定規で引いたような筆致を、俺は世界でただ一人だけ知っている。
彼女は、わざわざ俺の帳面に、自ら一筆を入れたのだ。
罵るためでも、嘲るためでもない。ただ「精算は正しく行われている」と、それだけを示すために。
俺は、灯りの消えた机に突っ伏した。
今夜も、明日も、その先も。俺はこの数字を、合わせ続けるしかない。
彼女が、かつてそうしていたように。たった一人で。
――ただし、俺の場合は、誰のためでもなく、ただ自分の愚かさのために。
石畳は、明日もまた泥にまみれているだろう。
そして俺は、また膝をつく。可愛げのない、正確すぎる数字の前に。
エルゼ様は、彼を罵りに来ることすらなさいません。ただ帳簿に一筆、「精算は正しい」と記すだけ。
これこそが、桐谷ルナの考える「最も可愛げのないざまぁ」でございます。
もし本編未読の方がこの番外編から覗いてくださったなら――どうぞ、第一話から。
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