番外編 後日談:計上できない資産 ――氷の女王が、生まれて初めて「三日間の無駄」を決算した話
完結作『完璧すぎて可愛げがない』の番外編でございます。
今回は、すべての監査を終えたあとのお話。エルゼ様が生まれて初めて「何もしない」という業務に取り組み、そして見事に失敗いたします。
差し押さえを執行なさるのは、いつもの通り、あの龍の旦那様でございます。
本編をお楽しみくださった皆様への、ささやかな「配当」として。
書類の山が、今朝はやけに低い。
私は執務机に広げた決算書の最後の一行に判を押し、銀の計算尺をパチンと畳みました。窓の外では、北方の遅い春が、屋根から雪の塊を落としている音がしています。
「エルゼ様。本日分の決裁、これにて完了でございます」
リィンが空になった書類箱を抱え、事務的に一礼しました。……そして、なぜかその場を動きません。
「あら。……まだ何か?」
「一件、未処理の案件がございます」
リィンが差し出したのは、見慣れぬ様式の帳票でした。私は受け取り、目を落とし、そして――生まれて初めて、書類の意味が理解できないという体験をいたしました。
『休暇取得実績報告書(対象期間:十年)』。
取得日数、〇日。
「……リィン。この『〇』は、印字の不良かしら」
「いいえ。正確な実測値でございます」
リィンは眉ひとつ動かしません。
「なお、未消化の休暇は簿外債務として計上されます。エルゼ様の場合、累計三千六百五十日。……一日ずつ返済なさる場合、完済はおよそ十年後でございます」
「……。ずいぶんと質の悪い負債ですわね」
「はい。しかも無利子ですので、運用のしようもございません」
私は扇子を開き、口元を隠しました。……この従者、いつからそのような冗談を申すようになったのかしら。
そのとき、執務室の扉が――ノックもなく開きました。
「エルゼ。仕事は終わったな」
シグルド様でした。……いえ、正確には、シグルド様の腕でございます。私が「まだ書架の整理が」と言い終える前に、その腕は私の膝の裏をすくい上げておりました。
「し、シグルド様!? ……わたくし、まだ北方の採氷権の更新が――」
「損切りだ」
シグルド様は、私の抗議を一言で処理なさいました。……この方は、私がお教えした言葉のうち、最も物騒なものだけを正確に覚えていらっしゃる。
「リィン。三日、預かる」
「承知いたしました。……行ってらっしゃいませ、エルゼ様」
「リィン!? あなた、どちらの雇用主に忠誠を――」
窓が開き、春の風が書類を巻き上げ、私の抗議はそこで打ち切られました。
北の湖は、まだ半分が凍っておりました。
岸に降ろされた私は、まず反射的に湖面を見渡し、氷の厚みを目測し、切り出せる量を暗算し――
「エルゼ」
背後から伸びてきた手が、私の銀の計算尺を、そっと抜き取りました。
「あら。……お返しくださる? わたくし、その氷の資産価値を試算している最中ですのよ」
「三日間、預かる」
「……。それは差し押さえと申しますのよ、シグルド様」
「ならば正当な差し押さえだ。君は債務者だからな」
低い笑いが、私の耳のすぐ後ろで鳴りました。
「三千六百五十日。返済を始めろ、と言われたのだろう」
……あの従者、報告が早すぎませんこと?
一日目。私は、何もしないという業務の遂行方法がわからず、湖のほとりに三時間ほど直立しておりました。
二日目。私は、日向で丸くなったシグルド様の――龍の姿の――背の鱗を、端から順に数え始めました。二百七枚まで数えたところで、鱗の一枚がわずかに欠けているのを見つけ、私はそこで手を止めました。
――ああ。これは、あの日のものだわ。
私を庇って、この方が焼かれた日の。
私は、その欠けた縁を指でなぞりました。埋めてさしあげることは、いくらでもできます。……けれど、そうしてはいけない気がして、私は結局、指を離しました。
「数え終わったか」
「……いいえ。二百七枚で、監査を打ち切りましたわ」
「なぜだ」
「……。減価償却の対象ではございませんでしたので」
龍の喉が、ぐるる、と低く鳴りました。……笑っていらっしゃる。
三日目。私は、日の高いうちに眠ってしまいました。……十年と、それから数えるのも億劫な歳月を経て、初めてのことでございます。目が覚めたとき、私の頬の下にあったのは、鱗ではなく人の腕でした。
帰りの空の上で、私は三日間を仕訳しようと試みました。
収益――ゼロ。
費用――執務停滞による機会損失、およそ四万ゴールド。
……つまり、純然たる赤字でございます。
なのに私は、その数字をどの勘定科目にも落とせずにおりました。損失に計上しようとすると、ペンが止まるのです。……こんなことは、ただの一度もございませんでした。
「シグルド様」
「なんだ」
「……わたくし、困っておりますの。……この三日間を、どこにも仕訳できませんわ。……資産でも、負債でも、費用でもない。……帳簿に載らないものを、わたくしは信用しない主義でしたのに」
シグルド様は少しのあいだ黙っていらして、それから、当然のことのようにおっしゃいました。
「載らないものを、人は幸福と呼ぶんだろう」
「……。」
「相変わらず、可愛げのない女だ」
――可愛げがない。
かつて、大勢の前で私に投げつけられた言葉。私の十年を、たった五文字で棄却した言葉です。
それを、この方は、まるで世界で最も上等な褒め言葉のような声で口になさる。
「……ええ。存じておりますわ」
私は扇子を開き、赤くなっているであろう顔を隠しました。……一単位の隙も見せぬのが、私の経営方針でしたのに。
城に戻ると、リィンが玄関で待っておりました。
「おかえりなさいませ。……不在中の案件は二件。……北方の採氷権は自動更新済み。……それと、例の送金元への照会は、本日も回答がございません」
「……。あら。……よほど、筆まめではない方らしいこと」
差出人の名も、通貨の単位すらわからぬ、あの一件。……いずれ、こちらから訪ねてさしあげねばなりませんわね。
……ですが、それは今日ではございません。
私は執務机に戻り、休暇取得実績報告書を引き寄せ、取得日数の欄の「〇」に細く線を引いて、「三」と書き直しました。
残り、三千六百四十七日。
「リィン。次の三日の予約を入れておいてくださる?」
「……よろしいのですか。決算期でございますが」
「ええ」
私は銀の計算尺を、パチン、と鳴らしました。
「準備は、すべて整いましたわ」
帳簿に載らないものは信用しない。そう言い続けた女が、たった三日で、載らないものを一つだけ抱えて帰ってまいりました。
……減価償却の方法も、引当金の額も、まだ決まっておりませんけれど。
もし本編未読の方がこの一話から覗いてくださったなら――どうぞ、第一話から。大勢の前で「可愛げがない」と切り捨てられたあの夜から、この三日間までは、きちんと地続きでございます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。よろしければ【ブックマーク】と評価を、この監査へのご出資として。




