第二百三十三話 「相容れぬかつての友人」【三人称視点】
島は、空白だった。
黒い海のただ中、ぽつりと浮かぶ楕円の陸塊。
砂浜を一歩離れると、すぐに膝丈の草が波のように起伏し、その向こうは低木と灌木の密度が急に濃くなる。
花もなく、おおよそ生物の存在というものを感じさせない。
ただ、生の色彩を奪うように、同じ緑が幾層にも折り重なっているだけだった。
にもかかわらず、島の気配は何もないわけではない。
耳鳴りと呼ぶには弱すぎる、けれど確かに喉の奥を撫でていく圧がある。
肌に貼り付くような、見えない膜のさざめき。
──神威の圧力。
それは、存在感としてはあまりにも薄い。
だが、消えてはいない。
大気へ溶け、土へ沈み、草いきれに混じって続いている。
「…………」
レイ・シルヴァリアは、足を止めずにそれを感じていた。
外套の裾に露が重みを作るたび、左手は無意識に腰の革帯へ下り、銀の仮面の外縁を指で撫でた。
「大丈夫……あなたと一緒だもの」
一歩ずつ。
踝を草の刃が掠め、海鳴りは背中で小さくなっていく。
レイは足をさらに細かく刻んだ。
ここに来るまでの道のりを、身体が勝手に反芻する。
「長かったわね、本当に」
彼女の情報は、最初から乏しかった。
千年前の記録は物語の体裁で誇張に塗れているし、彼女の神威は海で拡散し、方角はこの広い海の上では一晩で鈍る。
まるで、薄い糸を薄い指先で辿るような作業だった。
決定打は、皮肉なものだ。
同時進行で進めていた子供の誘拐――アルス・マグナ教団への疑いを口実に、グランチェスターと諸商会が“正義の連合”を組んでくれたこと。
こちらとしてはそれも問題だったが、それが地図の余白を埋めた。
砦をどこへ据えるか。
誰が決めるか。
封印を施したのがグランチェスターの祖なら、血は必ず彼女の鍵を抱いている。
守るなら“守るべきもの”の手前だ。
海図の針路は、こちらの島を覆うように描かれ、あの島に旗印が立った。
「バカの弟はバカなものね。あんなところに連合の砦を構えちゃ、魔王がここに封印されているって言ってるものじゃない」
公に出来ない情報な分、グランチェスターは魔王の封印地すらも意識せざるを得ない。
最初から誘拐事件などは放っておけば良かったものを。
……いや、それも無理な話か。
シュヴェルツの領主である以上、その地で起こった問題にはグランチェスターも無視できないのだから。
草の海に、硬い色が混じった。
土が浅く、白い石が背骨のように露出している。
レイは指先で仮面の額を軽く撫で、息を整えた。
怖れはある。
だが、怖れは、ようやく辿りつけるという実感を増幅させる燃料でもある。
「遺跡……ずいぶんと分かりやすいわね」
島の中心にあるのは、古びた遺跡。
半ば埋もれた円環の縁。
崩れた列柱。
入口は半分が土に飲まれ、半分が海風に風化している。
「……もう、すぐだからね。アステル」
――この任を終えたら、きっと猊下は私を認めてくださる。
猊下の黄金錬成は、"死者を蘇らせる"こと。
数千の魂を引き換えに、望んだ個を現世に顕現させる力。
先のヴェンザルとグラヴォーンのように、失った生命の息吹を、黄金の加護を持ってこの世に顕現させてくださる。
「ねぇ、生き返ったら──何をしようか……私、あなたに言えていないことがたくさんあるの」
銀の仮面は答えない。
けれど、レイの口元が、微かに上がった。
約束を告げる声音は、誰に聞かせるでもなく土の上でほどけた。
けれど――
――ゴオォォォッ!
「――――ッ!?」
視界の端に、不意の爆炎が咲いた。
熱の壁が地表を舐め、乾いた草が片端から炭になる。
砂利が弾け、風化した石の破片が鉈のように飛んだ。
しかしレイの足は、それより先に動いていた。
外套が燃え縁を走らせながら翻り、彼女の影だけが火線から滑り落ちる。
肩口で熱が吠え、焦げた甘い布の匂いが遅れて鼻を刺した。
「これ以上、そちらには近づけさせませんよ」
冷えた声が、風の中で輪郭を持った。
遺跡の列柱の陰――転移の光輪がまだ薄く残る場所に、男が立っていた。
薄青の羊皮紙はすでに灰となり、指先からさらさらと零れ落ちる。
セリエス。
シュヴェルツ伯爵家・グランチェスターの家令長にして、現場の指揮を預かる男。
胸元で短く魔力を結び、掌の中心に残光の赤を一輪だけ残して、次撃の出力を測る。
レイは、仮面の奥で息を浅くする。
追手が来るのは当然だ。
ヴェンザルとグラヴォーンを囮に立てた以上、砦側の誰かがこちらの空白を嗅ぎ当てる可能性は想定の範囲。
――でも。
「随分と早かったのね……まさか直通のスクロールがあるとは思っていなかったわ。けれど、ヴェンザルたちを倒してきたわけではなさそうね……見殺しにしてきたのかしら」
「…………」
セリエスは、わずかに顎を上げるだけだった。
魔族と話す言葉など無いとでも言うように、向けるのは敵意のみ。
「残念ですが、ここを知られた以上、排除させていただきます」
「そう」
名乗りも理由もいらない。
封印の前という事実が、全ての理屈を代弁する。
「けれどセリエス、あなた如きが、私を止められるかしら」
「――――ッ!?」
次の瞬間、レイは指先を仮面の縁へ運んだ。
白の仮面が、軽い音を立てて外れる。
セリエスが言葉を失ったのも無理はない。
露わになった顔は、当然セリエスが知らないわけがないモノで――
冷徹を仕事着のように着続けてきた彼の目が、初めて揺らいだ。
「……まさか……そう来ますか……」
セリエスの頬に、ひやりと汗が一筋落ちる。
「似合ってないですよ……その恰好……」
彼にとって、これほどまでキツイ対面はないはずだ。
それを分かった上でも胸を抉られるような気分だろう。
セリエスを見上げるレイの目は、冷たく細められていた。
シュヴェルツで、教会で、ある時兄が「巡回のついでだ」と言いながら必ず足を止め、柔らかい声で名を呼んだ相手。
いつも柔和に笑っていた、ケーキを持って誕生日を祝ってくれた、あの日のシスターはそこにいない。
夜の底で磨かれたような冷たさが、紅の瞳に細く灯っている。
仮面よりも無表情で、仮面よりも無慈悲だった。
セリエスは理解する。
目の前の存在から立ちのぼる密度は、ただの修道女のものではない。
ここまで“変わる”までに、どれほどの命が犠牲になったのか。
背筋を冷える想像が、一拍で脳裏を駆ける。
――しかし、そんなことで退くわけにはいかない。
「…………念のため、退く気はありますか、シスター」
レイの睫毛が、わずかに震えた。
冷えた空気が一滴だけ波紋を作る。
「シスター、だなんて。随分と冷たいのね。それとも、シスターだった頃の私に戻れというの?」
「ええ。できることなら」
「——できない相談ね」
「そう、ですか」
セリエスは短く、それだけ言った。
今更お互いの立場や状況に対する問答なんて意味がない。
どうしてとか、なぜとか、そんなこと、聞いたところで聞きたくもない台詞が返ってくるのは火を見るより明らかなのだから。
目に力を込めて、セリエスはこの地を死守する意を表すように構える。
それに、彼女は……。
「あなたこそ、退く気はないの? セリエス」
優しく、嫌になるくらい穏やかな声でそう言った。
まるで、駄々をこねる子供を諭す母親のように。
「今すぐここから逃げ出しなさい。あなただけなら許してあげる。魔王が復活すれば、ここもただ事では済まないから」
その声、口調、いつか三人で話した時とまったく同じで……。
だからこの時、セリエスは激昂した。
「……ふざけるな」
この期に及んでこの魔族になりきれない彼女が、見当違いの気遣いをしていることに。
その条件をセリエスが飲むと、たとえわずかでも思っていることに。




