第二百三十二話 「もしもの夢」【レイ視点】
──回想。
シュヴェルツの朝は、鐘の音でほどけていく。
世界で一番大きな教会──そう言い張るには少しだけ虚勢の入った自負が、古い尖塔の影を誇らしげに伸ばしていた。
石畳は露を含み、風がひとつ吹けば、礼拝堂の彩色ガラスが薄く鳴る。
私は修道服の袖を肘まで折り、花壇へと水をやった。
鼻歌が、知らず口から漏れる。
子どもが描いたような簡単な旋律。
けれど、こういう単純さは悪くない。
柔らかい土が水を吸い、色鮮やかな花たちが、朝日と競うように濃く変わっていく。
まるで、先ほどとは違う生き物のように。
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朝食は共同の食堂で。
木の長卓には、素朴なパン、ポタージュ、林檎のコンポート。
調理当番の日は、香草の刻み方で小競り合いが起きる。
今日は粉砂糖の振り方で戦が始まりかけていた。
そんな"居場所"で──私は今日も、食べ、祈り、笑う。
生活が四角い器にちゃんと収まっていく感覚が、ここにはあるのだ。
匙の音、椅子の軋み、湯の泡、誰かが小さく歌う聖句。
しかし、なぜだろう。
私は、その四角が、ときどき怖くなる。
ほんのわずかな掛け違い。
運命にもしもがあれば、私はこのまま彼らと、彼女たちと同じただの人間として生きられたんじゃないのかという、バカな考えを懐いてしまった。
昨日に続く今日。
今日に続く明日。
絶え間なく繋がる毎日の連続で、私はどれだけの可能性を逃してきたのだろうかと。
──ほんのわずかな掛け違い。
もし、と考える。
もし、昨日の夜に私が一分長く祈っていたら。
もし、朝に髪のほつれをもう一束だけ整えていたら。
もし、礼拝堂のモップがけをもう一往復していたら。
そんなごく些細なものでさえ、何年後かに振り返れば大きな転機を意味するものになるかもしれない。
極端だが、落石事故などがその最たる例じゃないだろうか。
ほんの数分、あるいは数秒の誤差で明暗が分かれる局面は確かにある。
もう少ししっかりと掃除しようとしたり、髪の手入れにもう少しだけ手間をかけたり、たったそれだけのことで人生が変わる。
どのようにでも転ぶ。
幸にも不幸にも、どうとでも。
だから、ふと思ったのだ。
もしかして、もしかしてだが、私にもまるで違う人生が用意されていたのかもしれないと。
今ではかけ離れすぎていてたどり着けない……過去の分岐路で些細なことから派生した可能性。
配膳の手を動かしつつ、私は指先についたバタークリームをそっと舐める。
「……甘い」
でも、こんな感傷だけで成り立つ甘い夢を私は見続けている。
“もしも”の夢を。
違うレイ・シルヴァリアの夢を。
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昼前は裏庭の井戸にて。
私含む修道女見習い三人で洗濯をしていたところ、見習いの片方が泡を頬につけたまま、ずいと顔を寄せてくる。
「それは例えばアレよね〜! あの喋るのがクッソ遅い神父様の礼拝が、もしももうちょっと早く終わってたら、今頃あたしら、街ですっごいイケメン騎士団にナンパされてたかもしれないとか!!」
…………いや、私が言っているのはそういうことじゃなくて。
もう片方も、泡を指でこねながら目を輝かせ──
「じゃあ今日、逆に礼拝をサボってなかったら、さっきのお店で“お客様一万人目”とかになっちゃって、特大アップルパイ食べ放題券もらっちゃったりとか!?」
……それはちょっと、魅力的ではあるけど。
「えー! じゃあどういう意味よ、レイ!」
「わ、私が言いたいのは、その、なんていうか……もっと全然違う世界みたいな」
「いい男捕まえるのも世界が変わる出来事でしょーよ!」
「甘いスイーツに囲まれると楽園が見えてこない!?」
「あ、うん……それはそうかも、だけど」
たとえば、そう……私という人間そのものの生き方が変わるみたいな。
そういうもしもに、ちょっとだけ憧れている。
泡の冠を頭の上に乗せられながら、私は真顔で考えてるのに、ふたりは容赦がない。
「レイちゃ〜ん、なんとなく言いたいことはわかるけどさぁ。そういう、なんてーの? 冒険者目指してるバカ男子が考えそうな妄想、顔に似合わず好きだよね」
「あははウケる。教会に謎の黒い組織とかが攻めてきて、それに一人で立ち向かう“勇者な俺様”、とか考えてそー!」
「ゴブリンにも苦戦してるのにさー! どっから出てくるんだろねあの自信!」
まぁ、そりゃ確かに、冒険者を目指す男の子はそんなイメージだけど。
でも、私が言いたいのは──
「あ! わかった、例の騎士団長の彼もそんな感じだからでしょ!」
「なっ──!?」
心臓が、泡より軽い音で跳ねた。
この二人、いつもは鈍臭いくせに、こういう時に限れば嗅覚がやたら良い。
私の視線の癖なんて、いとも簡単に拾ってしまう。
「騎士団ってグランチェスター家のよね? え? そうなの!?」
「そうでしょー!? だって彼もさぁ、いつも──ほら、廊下で窓の外を横目で見てさ、外套を“風で鳴らす”みたいな歩き方するじゃん、あれ絶対『今この瞬間、俺は国境の向こう側も守ってる』とか考えてるってー!」
「そういえば……こないだだって、彼の弟さんの誕生日パーティにレイだけ呼ばれてたよーな」
「ち、違うっ、違うったら! あなたたち、いきなり何を根拠に──」
「うわーマジだ。超キョドってる。レイ、かわいー!」
「う、うるさいわねもう! ちょっとよ、ほんの、ちょーーっとだけ、いいかなって思ってるだけで!」
「あっ、アステル様ーっ!!」
「えぁっ!!??」
一瞬、そんなバカなと思っていたが、絶妙に悪いタイミングで彼が現れた。
見習いが、これ以上なく良い声量で手を振っている。
「アステル様ぁーー! こんにちはーー!!」
「おや、これはどうも。賑やかな声が聞こえてきたから、巡回中に立ち寄らせてもらったよ」
彼が、本当にそこに立っていた。
背が高く、鎧の継ぎ目は清潔で、肩のあたりの筋肉が歩幅に合わせて静かに動く。
黒髪は陽で少しだけ茶を宿し、目元は笑っているのに、視線の芯は真っ直ぐ。
ああ、と思ってしまう。
彼はいつも、こういう速度で私の世界に入ってくるのだ。
騒がさず、乱さず、でも確かに。
「ほらレイ、愛しの騎士様がわざわざ来てくれたんだって」
「な……ななな……愛し……って……」
「おほほ! アステル様〜! 私たちぃ、まだ礼拝堂のお掃除もありますので、よろしければ洗濯のお手伝いをしていただけませんこと〜? レイも一緒にお付けしますので〜!」
「はひぃ!? ちょっ、何をっ!?」
そんなそんな、そんなの、こっちにとっては嬉しい限りだけど、アステル様は迷惑に違いないのに。
「いいよ」
けれど、私のそんな思いとは裏腹に、彼は笑ってそう答えた。
冗談半分の無茶振りを、冗談半分で受け止める大人の声。
「ちょうど手が空いてたんだ……っていうか、俺も訓練から逃げ出してきた口でね。はは」
「そ……だったら、こんなところで修道女の洗濯の手伝いなんか……ッ」
「いいじゃないか別に。たまにはこういう息抜きも必要だよ、レイ。それとも君が、俺の代わりに訓練に出てきてくれるかい?」
「そんな……私、剣なんて、持ったことない」
「ははは、冗談だよ」
そう笑いながら、彼は私の背中をポンと叩き、隣に座る。
居座る気満々だ。
ズルい、そんなに笑顔を向けられると、私は何も返せなくなる。
「じゃーあとはごゆっくり!」
「お掃除に行ってきますことよ~!」
「あ、あなたたちッ! そんなこと言ってサボる気でしょ!! 戻ってきなさい!!」
風のように逃げる二人に対し、私は本音ではない言葉で引き戻そうとする。
だってそうでもしなければ、胸が苦しくて死んでしまいそうだから。
「じゃあ、水を汲むのは任せてくれ。レイは、洗ったものを干してくれるかい?」
「は、はいッ」
私は慌てて、洗濯物へと向き直る。
彼が私のことを「レイ」と呼ぶのは、この邂逅が一度目ではないからだ。
気が付いたら導かれるようにこの街で出会って、いつの間にか距離が近くなっていて。
「お、花壇の花も随分と綺麗に咲いてきたな。レイが大事に育ててる証拠だ」
「だ、誰が育てても一緒です!」
気付けば、こんな他愛もない話を毎日のようにする機会が多くなっていて。
思えば、出会った時からこの人のことが、好きだった。
「そういえば弟が、今年からグランチェスター伯爵のところで働くことになったらしい」
「えっ、騎士団のセリエスくんですよねっ!? 伯爵様のところって……すごいじゃないですか!」
「そう、アイツも剣の才能はあるから、いずれは副団長に推薦しようと思ってたんだけどなぁ」
「あんまり嬉しそうじゃないですね。兄として鼻が高いとか思いそうなのに」
「そうなんだけどさぁ、なーんか………ねぇ……?」
「寂しいんですね」
「バッカ! 寂しくなんかねぇよ! 俺はただ、一緒に競える奴が減ったのが嫌だったんだよ!」
「……それを寂しいというのでは?」
私の言葉に、彼はハッとして、顔を赤く染めながら目線を逸らす。
そんな子供っぽいところも、私の中ではあまりにかわいくて、大好きで……。
「セリエスくんも、もうそんな大きくなったんですね。以前誕生日をお祝いした時は、まだ少年って感じでしたのに」
「あぁ、そういえば、レイが作ったケーキをまた食べたいと言っていたな。また来てくれよ」
「……他の女の子たちに怪しまれるので、出来れば家には行きたくないです」
「ええ~!? なんだそれ!」
「セリエスくんは弟みたいでかわいいですけれど、彼じゃなくて、その……アステル様は……来てほしくないのですか? 私に」
「そりゃあ…………来てほしい、けど」
「騎士たる者、もっとハッキリと言えないのですか!」
「うっ、来てほしいです!!」
「はい、よろしい。仕方がないので、またお菓子を作っていってあげます」
「……なんだそれ」
顔に熱を持ったまま、私は強がりで鼻を鳴らす。
「っと……そろそろ戻らないとな。また会いに……手伝いに来ていいか?」
「ふふ、喜んで」
そんな、おかしくて、暖かくて、和やかで……。
恋とか勉強とか仕事とか、他愛ない諸々に彼と、彼女たちと一喜一憂できる日常。
その中で、私はいつかこの気持ちを……彼に伝えられたらって思うこともある。
だけど――
「レイはさ、将来は何かやりたいことはあるのか?」
私はそんなの、考えたこともなくて。
「俺はいつか、絶対守り抜きたい人を守れるような騎士になって――」
私は、この道の先に続く未知が、何も想像できなくて。
「なぁ、なんでこんなところにいるんだ?」
「…………?」
見上げた隣に、彼はもういない。
どこまでも広がる青い空の代わりにあるのは、深い、深い闇と、鮮烈な血の景色。
そして目の前に浮かぶのは、死人を彷彿させる禍々しい銀の仮面。
あぁ、だから。
だからこそ、私にとっての非現実とは、今この瞬間まで見ていた夢なのだと思い知った。
「ここは君の居場所じゃないだろう?」
彼だったはずの仮面が、そう私に告げてくる。
そう、分かっている。
分かっているの。
ここは、遥か遠くに掛け違えた、もう戻れない何時かの何か。
それをもしも別の選択でやり直せたら、あるいはこんな日々の続きもあったんじゃないかという私の妄想。
「わかっているわよ」
色褪せていく風景。
聞こえなくなる雑踏。
親しく話していた修道女たちの名前さえ、よく考えれば名前も思い出せない。
昨日に続く今日。
今日に続く明日。
絶え間なく繋がる毎日の連続で、取りこぼしたものが今はこんなに大きな隔たりを生んでいる。
――愛しの彼は、魔物に襲われて死んだ。
死因は、決してかっこいい死に様なんてものではなかった。
あんなに強かった彼でも、所詮はただの人。
弱い魔物の攻撃でも、当たり所が悪ければ、それだけで命につながる。
だから私は、奇跡に縋るしかなかったの。
涙は流した。
祈りもした。
だけど到底それだけじゃあ、埋まることがない隔たりに選べる道なんてなかったから。
『ではもしも、再び逢える術があるとすれば?』
そんな黄金の魔族の声にすら、私は縋ることしかできなかったから。
積み上げた屍の山で埋めていくしかなかったから。
『墓から這い出てくるのは、なんであれゾンビ──アンデッドだよ。親でも、友達でも、恋人でも……そんなものには変えられないし、変えちゃいけない』
いつかシュヴェルツで聞いた、旅人の言葉が離れない。
じゃあ、他にどうすればよかったの? あきらめてしまえばよかったの!?
嫌よそんなの絶対嫌。
私はそんな分別なんて持っていないし持ちたくない。
「だって――」
大事だったんだもの、彼の温もりが。
総てだったんだもの、彼らの愛が。
だったら私がそのために、躊躇なんかしちゃいけない。
誰に憎まれ、誰と戦い、誰を殺して誰をこの手から零そうとも――
私は迷わない。
迷ってはいけないんだと強く信じた。
彼を蘇えらせる。
幾千、幾万の魂が犠牲になろうとも。
「ロータス猊下の名の元に、私――レイ・シルヴァリアはこれより、千年の封印を解く」
忘れられない別離の記憶の追体験に、私は震えながら目を覚ました。
広がるのは、潮の鉄臭、神威の圧、灯らない空。
――ここは、彼を連れ戻すためでもある、一つの座標。
「着いたのね……」
魔王・エルジーナが眠る、封印の孤島。




