チー牛、ドパガキ、冷笑って……なんやっねんっ!って思ってた人。自分は「ちーうし」と読むと思ってた
最近、ネットを見ていると、「チー牛」「ドパガキ」「冷笑」みたいな言葉が妙に目につく。言葉そのものの意味や、どこまでを指す言葉なのか、それは実はかなり曖昧なものになっている。
でも、そこが面白い。
こういう言葉は、何かを正確に説明するためだけに使われているわけではない。
むしろ、「自分はこっち側ですよ」という仲間意識を確認するための道具になっているように見える。
たとえば「チー牛」と言われたとき、厳密に「こういう外見で、こういう性格で、こういう行動をする人間です」と定義できるわけではない。
人によって想像している対象が違う。それでも「なんとなくわかる」。
この「なんとなくわかる」が重要なのだと思う。
言葉の意味を厳密に共有しているのではなく、言葉を使うときの空気を共有している。
「それ、冷笑系じゃん」
「いや、ドパガキだから」
「チー牛がまた何か言ってる」
こういう言葉を使えば、とりあえず自分の立ち位置を示せる。そして同じ言葉を使う人がいれば、「あ、この人はこっち側だ」とわかる。
簡単に数字が大きい側に経つことが出来る。
つまり、悪口で使われると同時に、合言葉でもある。
これは降って湧いた現代のコミニティーではなく、昔から使われているコミニティー手段だ。
別にネットになって突然生まれた現象ではない。
もっと昔から、人間は曖昧な言葉を使って仲間意識を作ってきた。
たとえば「まじ」「やばい」なんて、考えてみれば相当に曖昧な言葉だ。
「この映画やばい」
これだけでは、面白いのか、つまらないのか、怖いのか、すごいのかわからない。
それでも会話は成立する。
なぜなら、言葉そのものよりも、表情や声の調子、前後の文脈、そして「この人ならこういう意味で言っている」という共有感覚によって補完されるからだ。
言葉というのは、必ずしも情報を正確に運ぶためだけのものではない。
「わかる」
「それな」
「まじで」
「やばい」
こういう言葉は、情報量だけを考えればたいしたことを言っていない。
でも、仲間同士で使えば「オレも同じ感覚だよ」という意思表示になる。
そしてネットでは、この性質がさらに強くなった。
「チー牛」や「冷笑」のような言葉は、対象を説明する言葉であると同時に、自分の立場を説明する言葉にもなっている。
「あいつらはこういう人間だ」
と言っているようで、実際には、
「自分はあいつらとは違う」
ということを言っている。
ここに、ちょっと虚無的な承認欲求がある。
何かを成し遂げたわけではない。特別な知識があるわけでもない。ただ、「この言葉を知っている」「このネタがわかる」「この人たちを批判する側にいる」というだけで、コミュニティの一員になれる。
言ってしまえば、「何者かになりたい」という欲求を満たすために、「何者ではない側」に所属する。
これはかなり現代的に見えるけれど、実はそうでもない。
発信元が変わっただけなのではないか。
昔なら「不幸の手紙」があった。
「これを何人に回さないと不幸になる」という、今考えると実に馬鹿馬鹿しいものだ。
それでも、受け取った人間は、それを誰かに渡すことで、その小さなネットワークに参加することができた。
「自分も知っている」
「自分も受け取った」
「自分も次の人に回した」
それだけで、ちょっとした仲間意識が生まれる。
やがて、テレビがその役割を大きく担うようになった。
ワイドショーを見れば、芸能人の不祥事や事件について、毎日のように「今日みんなで話す話題」が提供される。
朝にテレビを見て、昼休みに職場で話す。
「あのニュース見た?」
「ひどいよね」
「どう思う?」
ここでも、別に自分が事件を解決したわけではない。ただ、同じ話題を共有している。
そして現在はSNSだ。
テレビが「今日、日本中で話す話題」を提供していたのに対して、SNSは「この界隈の人間が話す話題」を無数に作り出した。
しかもSNSでは、ただ受け取るだけではない。
自分も発信できる。
誰かの投稿を引用して、感想を書いて、同じ意見の人から「いいね」をもらう。
すると、自分が社会に参加しているような感覚まで得られる。
ここがSNSの強烈なところだと思う。
「みんなが知っている」という感覚が、テレビ時代にはかなり大きな単位だった。それがSNSでは細分化していった。
日本中の人間が同じ番組を見る必要はない。
自分のいるコミュニティの中だけで、「これを知っている自分たち」が成立する。
だから、次々と新しい言葉が生まれる。
その言葉を知らない人には意味がわからない。でも、知っている人には通じる。
そして、曖昧であればあるほど便利でもある。
「それって具体的にどういう意味?」
と聞かれても、「そういう感じの人」と言えばいい。
明確な定義がなければ、反例を一つ出されても逃げられる。
「いや、そういう意味じゃなくて」
と、後から意味を動かせるからだ。
つまり、曖昧な言葉は便利なコミュニケーション手段であると同時に、否定から逃げるための盾にもなる。
正確な言葉なら、「それは事実と違う」と否定できる。でも、「なんとなくこういう奴」という言葉には、反論しようがない。
こうして考えると、「最近の人間は変な言葉ばかり使うようになった」という話でもない。
人間は昔から、曖昧な言葉を使って感情を共有し、仲間を確認し、話題を共有してきた。
不幸の手紙からテレビのワイドショーへ。そしてSNSへ。
変わったのは、人間よりも「みんなで同じものを見るための装置」のほうなのかもしれない。
ただ、SNSではその装置を誰でも持てるようになった。
だから、仲間意識も、対立も、ラベルも、以前よりずっと細かく、そして大量に生まれる。
「チー牛」も「冷笑」も「やばい」も、表面的にはまったく違う言葉だ。
それでも、その奥には意外と似たものがある。
「この言葉が通じる人間である」という、小さな所属確認だ。
人間は結局、何かを言いたいだけではなく「自分が誰と一緒なのか」を確認するためにも言葉を使っている。
そしてSNSは、その確認を一日中できる場所になった。
考えてみれば、これは便利なのか、寂しいのか、よくわからない。
ただ一つ確かなのは、言葉が増えたから人間が変わったわけではない、ということだ。
昔から人間は、同じ言葉を使うことで「自分たち」を作ってきた。
今は、その「自分たち」を作る速度が、ものすごく速くなっただけなのかもしれない。




