AI映えという新しい自撮り
今のAIをめぐる熱狂とそれに対する同じ熱量の反論を見ていると、ときどき不思議な気持ちになる。
AIそのものが何をしているのか、その仕組みや限界、実際の使い勝手について語られているようで、実は「AIを使っている自分」が語られていることが少なくない。
たとえばデータ整理の話。
本来なら、どんなデータを入力し、どこまでをAIに任せ、どこから人間が確認したのか。
どの程度時間が短縮され、どんな失敗が起きるのか。そういう具体的な話が中心になるはずだ。
しかし実際によく目にするのは、
「AIなら一瞬で終わる」「まだ手作業しているの?」「AIを使わない人は取り残される」
といったキャッチフレーズである。
そこでは、データ整理そのものはあまり重要ではない。重要なのは「AIを使える私」と「まだ使っていない皆様」という構図だ。
これは新しい能力の話というより、新しいマウント可能なライフスタイル記号なのかもしれない。そして、これを「AI映え」と呼ぶことができる気がする。
かつて「映え」は、きれいな料理や旅行先の風景を通じて、「こんな場所にいる自分」「こんな体験をしている自分」を写し出すものだった。
AI映えも構造はよく似ている。ただし、こちらはもっと知的に見える。
AIで何を作ったかよりも、AIを使いこなし、時代の変化に乗り、古いやり方から脱却している自分が映える。
だから技術の中身を尋ねると、話が急に薄くなることがある。
「結局、何をどう自動化したのか」「最終的に間違えてるけど、どこから間違えてるのか」と聞かれると、キャッチフレーズだけでは答えられないからだ。
もちろんAIは実際に便利だ。
作業時間を減らし、発想を補助し、これまで面倒だった仕事を楽にしてくれる。
しかし、本当に使っている人の話はたぶん案外地味である。
これが30分から5分になった。ただし、ここは専門的で間違えるので最後は自分で確認する。
そんな具体的で、少し面倒な話になる。
その地味さこそが、本当は技術の話なのだと思う。
AIを語ることが悪いのではない。
だが、AIで何ができるかという話が、いつの間にか「AIを使っている自分はどれだけ先進的か」という自己演出にすり替わると、技術は承認欲求の背景になる。
言ってしまえば、これは自撮りの新しい形なのかもしれない。カメラに自分の顔を映す代わりに、AIという最新の風景を背景に置く。
そしてそこでは、AIで何を作ったかよりも、AIを使っている自分のほうがよく映える。
もちろんそれは悪いことではない。
そこで承認欲求が絡み、誰かを踏み台にするから荒れているのが、昨今の構図なんだろうなと思う。




