怖い話
特に何かを調べていたわけではない。
ただネットを眺めていて、たまたま昔の炎上事件をまとめた記事に行き着き、懐かしさ半分、野次馬根性半分で読んでいた。
そんな過去の炎上記事を読んでいて、ふと思い立った。
記事の中で紹介されていたツイート(ツイートって言葉がもう昔だというのも恐怖)を、本人のプロフィールまで遡ってみた。
こういうことは、ネットを長く見ているとたまにある。昔の炎上を振り返る記事を読んでいると、「勝手にまとめられた他人のポスト」が目立つ時がある。
炎上から何年も経っていれば、大抵の人のタイムラインは年齢とともに変わっていっているはず。
この人はこんだけしょうもないことで怒っていたけど、今はどうしてるんだろう。
今回も、そんな軽い気持ちだった。
ツイートにアクセスし、プロフィールへと飛んでみる。
そして現在の投稿を眺めてみると、妙な既視感があった。
六年前に炎上していた頃と、やっていることがほとんど変わっていない。
誰かに対して攻撃的な言葉を投げる。相手を見下す。必要以上に執拗に絡む。
細かい表現や対象は違っていても、投稿から感じる悪意の方向性が、昔とほとんど同じだった。
最初は「うわ、まだやってるんだ」と思った。
しかし、しばらく眺めているうちに、それとは別の感覚が出てきた。
怖い。
単純に、その人の投稿内容が怖いという話ではない。
六年という時間が経っているのに、この人の中では何も終わっていないように見えたことが怖かった。
六年前というと、かなり昔だ。
自分にとってもそうだし、インターネットの世界にとってはなおさらだ。
流行していたサービスも、話題になっていたものも、人々の関心も変わっている。
六年もあれば、人間関係だって仕事だって生活だって、いろいろ変わっていて当然だ。
だから、昔の炎上記事を読むとき、そこに出てくる人物をどうしても「過去の人」として見てしまう。
「あの頃、こういう人がいた」
そんな具合に、無意識に過去形にしてしまう。
ところがプロフィールを開いてみたら、過去形ではなかった。
現在形だった。
六年前に問題になったのと同じようなことを、今も続けている。
その瞬間、六年という時間が妙に薄く感じられた。
人間は時間とともに変わっていくものだと思っている。
もちろん、実際にはそんな保証などない。年齢を重ねたからといって性格が変わるわけでもないし、昔の失敗から必ず何かを学ぶわけでもない。
ただ、普段はそれを意識する機会がない。
だから「六年前の炎上」を読んでいた自分と、「現在の投稿」をしている本人が一本につながった瞬間に、少し変な感覚になった。
六年経ったからといって、過去は自動的に過去になってくれるわけではないのだ。
本人が変わらなければ、六年前の続きは六年後にも存在する。
これはSNSの怖さなのかもしれない。
ネットでは、過去の発言が残り続けることばかりが問題にされる。でも本当に怖いのは、過去の発言が残っていることだけではない。過去の発言をした人物が、現在も同じ場所に立っていることだってある。
しかも、それを偶然見つけてしまうことがある。
昔の炎上記事を読んで、なんとなくツイートをクリックして、プロフィールを開く。それだけのことで、六年前と現在が突然つながる。
そう考えると、SNSというものは、人間の「変わらなさ」まで保存してしまう場所なのかもしれない。
そう感じたのは夏の夕方だった。つまり、これを書いてる今だ。
窓の外はまだ明るく、夏特有の湿った空気が残っていた。
そんな、ごく普通の夕方に、六年前の炎上記事から本人の現在のプロフィールへ飛んで、六年前とほとんど同じような誹謗中傷を見つけた。
別に事件が起きたわけでもない。
危険な目に遭ったわけでもない。
ただ、六年という時間を挟んでも、人間が同じことを続けているという事実を偶然見てしまった。
それだけのことなのに、その日の夕方は妙に怖かった。




