第19話 今日は先輩じゃなくて――
夏休み二週目。
土曜日。
朝から俺は駅前にいた。
約束の時間は午前十時。
時計を見ると、まだ五分前だった。
「……」
少し早く来すぎたか。
そう思っていると。
「藤堂くん」
後ろから声がした。
「葵先輩」
振り返る。
そこには、小鳥遊葵先輩が立っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
今日の先輩は、いつもの大学で見る姿とは少し違っていた。
落ち着いた服装。
髪も少しだけ整えている。
「……」
「どうしたの?」
「いえ」
俺は少しだけ視線を逸らす。
「似合ってるなと思って」
「……そう」
先輩は一瞬黙った。
そして。
「ありがとう」
ほんの少しだけ頬を緩めた。
「じゃあ、行きましょう」
「今日はどこへ?」
「秘密」
「……」
「桜井さんの真似ではないわ」
「まだ何も言ってませんよ」
「顔に出ていたから」
「そんなに?」
「ええ」
先輩が小さく笑った。
その笑顔は。
大学ではあまり見ないものだった。
電車に乗る。
今日は二人だけ。
向かい合わせの席に座る。
「藤堂くん」
「はい?」
「今日は一つお願いがあるの」
「何ですか?」
「……」
先輩が少し迷う。
「今日は」
「はい」
「先輩って呼ばないで」
「……え?」
「私たち、大学の中では先輩と後輩だけど」
「はい」
「今日は休日でしょう?」
「そうですね」
「だから……」
先輩が少しだけ視線を逸らす。
「葵って呼んで」
「……」
思わず黙ってしまう。
「無理?」
「いや」
俺は少し考える。
「……葵さん」
「さんもいらない」
「……葵」
「うん」
先輩――いや。
葵が笑った。
「それでいいわ」
たった一言。
それだけなのに。
距離が一気に近くなった気がした。
到着したのは、駅から少し離れた美術館だった。
「美術館?」
「ええ」
「好きなんですか?」
「昔から好きなの」
「知らなかった」
「言ってなかったもの」
中へ入る。
夏休みということもあり、そこそこ人がいた。
展示されている作品を二人で見て回る。
「この絵、綺麗ですね」
「そうね」
「葵はどう思う?」
「……」
葵が少し驚いた顔をする。
「何?」
「いえ」
「?」
「名前で呼ばれるの、まだ慣れないわね」
「俺もです」
「ふふ」
二人で笑う。
展示を見ながら、学校では話さなかったことも自然と話すようになった。
「大学では、いつも冷静に見えますよね」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、藤堂くんから見て私はどういう人?」
「……」
少し考える。
「真面目で」
「うん」
「何でも一人でできて」
「うん」
「綺麗で」
「……」
葵が止まる。
「それは今、言う必要あった?」
「思ったことを言っただけです」
「……そう」
少し顔を赤くしながら。
「ありがとう」
と呟いた。
昼。
二人で美術館近くのレストランへ入る。
「何にします?」
「私はパスタ」
「じゃあ俺も」
注文を終える。
「そういえば」
葵が話し始める。
「藤堂くんは、昔から今みたいな性格だった?」
「……」
俺は少し黙る。
「昔は違った」
「そう」
「もっと人と話してたし」
「意外ね」
「でも」
俺は水を一口飲む。
「中学の頃、いろいろあって」
「……」
「人と関わるのが怖くなった」
葵は何も言わずに聞いている。
「だから大学に入ってからも、なるべく距離を取ってた」
「そうだったのね」
「でも」
「うん」
「みんなと過ごしてるうちに」
俺は笑う。
「少しずつ、変わってきた気がする」
「……」
「桜井や、花音や、心春や、凛や、結衣先輩。それに」
俺は葵を見る。
「葵のおかげでもあると思う」
「私?」
「ああ」
「どうして?」
「最初に俺のことをちゃんと見てくれたから」
葵はしばらく黙っていた。
「……そう」
そして。
「なら」
「?」
「今日、誘ってよかった」
「俺も」
「……」
「葵とこうして話せてよかった」
葵は少しだけ笑った。
「私もよ」
午後。
美術館を出る。
「次はどこへ?」
「少し歩きましょう」
「分かった」
近くの公園へ向かう。
木陰を歩く。
蝉の声が聞こえる。
「暑いですね」
「そうね」
「大丈夫?」
「平気」
「無理しないでください」
「藤堂くんは優しいわね」
「そうですか?」
「ええ」
「普通ですよ」
「それが普通にできる人は、意外と少ないのよ」
葵はそう言って笑った。
公園のベンチに座る。
「……」
しばらく二人で休む。
「藤堂くん」
「ん?」
「大学祭のとき」
「はい」
「私、あなたに言ったこと覚えてる?」
「覚えてます」
「そう」
葵は少し俯く。
「今日」
「はい」
「あなたと二人で過ごして」
「……」
「もっと好きになった気がする」
俺の心臓が跳ねる。
「葵……」
「だから」
葵が俺を見る。
「もう一度言うね」
「……」
「私は、あなたが好き」
真っ直ぐな言葉だった。
「先輩としてじゃなくて」
「……」
「一人の男性として」
俺は言葉を失う。
「……ありがとう」
「それだけ?」
「今は……」
俺は正直に答える。
「まだ、誰か一人を選べない」
「分かってる」
「ごめん」
「謝らなくていいわ」
葵は首を横に振る。
「むしろ」
少し笑う。
「今のあなたに、適当な答えを返してほしくない」
「……」
「だから」
葵は立ち上がる。
「待つわ」
「葵」
「その代わり」
「?」
「私も遠慮しない」
葵は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「覚悟しておいて」
「……分かった」
帰り道。
駅へ向かって歩く。
「今日は楽しかった?」
「はい」
「ならよかった」
「葵は?」
「私も楽しかった」
駅が見えてくる。
もうすぐ今日が終わる。
「……」
すると。
「藤堂くん」
「ん?」
葵が立ち止まった。
「今日は」
「はい」
「最後に一つだけお願いしてもいい?」
「もちろん」
「手」
「手?」
葵が少しだけ手を差し出す。
「……」
「嫌ならいいわ」
「いや」
俺はその手を取った。
葵の手が少し震える。
「……」
「……」
二人とも何も言わない。
ただ並んで歩く。
「ねえ」
「はい?」
「今日は名前で呼んでくれたでしょう?」
「はい」
「もう一回」
「……葵」
「うん」
葵は嬉しそうに笑った。
「もう一回」
「葵」
「……ふふ」
その笑顔を見て。
俺も自然に笑った。
駅で別れる。
「じゃあ、また大学で」
「はい」
「藤堂くん」
「ん?」
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「また二人で出かけましょう」
「もちろん」
「約束ね」
「約束」
葵は手を振る。
俺も手を振り返す。
電車に乗り込む。
窓の外を見ると。
ホームにいる葵が小さく手を振っていた。
「……」
胸の奥が温かい。
今日一日。
俺は葵の知らなかった一面をたくさん見た。
クールで。
大人っぽくて。
何でも一人でできると思っていた。
でも。
実際には。
照れたり。
迷ったり。
笑ったり。
俺と同じように。
一人の大学生だった。
「……葵」
名前を呟く。
それだけで。
胸が少しだけ苦しくなる。
その夜。
俺のスマホが鳴る。
【小鳥遊葵】
『今日はありがとう』
『こちらこそ』
返信する。
しばらくして。
『今日は、とても楽しかった』
『俺もです』
『また行きましょう』
『はい』
そこで終わると思った。
しかし。
『それと』
『?』
少し時間が経って。
『次に二人で会うときも、名前で呼んでね』
「……」
俺は思わず笑った。
『分かった。葵』
送信。
すぐに既読がつく。
『……それは反則』
そして。
『でも、嬉しい』
俺はスマホを見ながら。
小さく笑った。
翌日。
大学。
「藤堂くん!」
莉奈が駆け寄ってくる。
「おはよう」
「おはよう!」
「昨日、どうだった?」
「昨日?」
「小鳥遊先輩とデートしたんでしょ?」
「……」
「どうだったの?」
「楽しかったよ」
「……そっか」
莉奈は少しだけ笑う。
「じゃあ」
「?」
「次は私がもっと頑張らないとね」
「桜井?」
「なんでもない!」
そう言って笑う。
その少し離れたところ。
「藤堂先輩!」
心春がこちらに駆けてくる。
「おはようございます!」
「おはよう」
「今日も暑いですね!」
「ああ」
さらに。
「おはようございます~」
花音。
「おはよう」
凛。
「おはようございます」
結衣。
いつものメンバーが集まってくる。
けれど。
俺たちの関係は少しずつ変わっていた。
それぞれが俺との距離を縮めようとしている。
そして俺も。
その気持ちから逃げなくなっていた。
その日の昼休み。
スマホを見る。
新しいメッセージ。
【橘花音】
『藤堂くん~』
『私も二人でお出かけしたいです~』
『だめですか?』
その直後。
【白石結衣】
『藤堂くん、もしよかったら』
『今度、一緒に買い物に付き合ってくれない?』
「……」
俺は二つのメッセージを見比べる。
すると。
「藤堂」
直人が横から覗き込む。
「何だ?」
「……いや」
直人はため息をつく。
「本当に大変だな、お前」
「……」
「でも」
直人は少し笑う。
「逃げるなよ」
「え?」
「今のお前なら、大丈夫だろ」
「……」
俺はスマホを握り直す。
「ああ」
逃げない。
誰かを選ぶその日まで。
みんなとちゃんと向き合う。
それが。
今の俺にできることだった。




