第10話 この気持ちの名前
大学祭本番まで、あと三日。
前夜祭が終わった翌朝。
俺はいつもより少し早く大学へ向かった。
昨日のことが、頭から離れなかった。
ステージ。
無数の光。
そして――。
隣にいた、あの人。
「……」
俺は歩きながら考える。
あのとき。
どうして、あんなに目を奪われたんだろう。
ただ隣にいただけなのに。
胸が少し熱くなって。
もっと、その人を見ていたいと思った。
「……変だな」
今まで、そんなことはなかった。
俺は恋愛に興味がなかった。
少なくとも、そう思っていた。
「藤堂くん!」
突然、後ろから声。
振り返る。
「……桜井?」
「おはよう!」
「ああ、おはよう」
莉奈が駆け寄ってくる。
「今日早いね」
「桜井もな」
「私は昨日寝るの早かったから!」
「そうか」
「藤堂くんは?」
「普通」
「……本当に?」
「何が?」
「昨日、帰るときちょっと変だったから」
「見てたのか?」
「うん」
莉奈は俺の顔を見る。
「何か考えてた?」
「……少し」
「何を?」
「秘密」
「えー!」
莉奈が頬を膨らませる。
「教えてよ」
「まだ自分でも分からない」
「……」
莉奈は少しだけ黙る。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、分かったら教えてね」
「分かった」
その笑顔は、いつもと同じだった。
でも。
何故か。
俺は少しだけ目を逸らした。
実行委員室。
「おはようございます!」
心春が元気に入ってくる。
「おはよう」
「先輩、今日も早いですね!」
「まあな」
「昨日ちゃんと寝ました?」
「寝たよ」
「ならよかったです!」
心春が俺の隣に座る。
「先輩」
「ん?」
「これ」
小さな袋を渡される。
「何?」
「飴です!」
「飴?」
「昨日、ずっと忙しかったじゃないですか」
「まあ」
「だから疲れたとき用です!」
「ありがとう」
「どういたしまして!」
心春は嬉しそうに笑った。
その様子を。
凛が少し離れたところから見ていた。
「……」
「星野?」
「はい」
「どうした?」
「いえ」
凛は手に持っていたものを差し出す。
「これ」
「?」
「コーヒーです」
「俺に?」
「はい」
「どうして?」
「昨日、少し疲れていたようなので」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
心春が凛を見る。
「星野さんも先輩に渡したんですね」
「はい」
「……」
「……」
二人の間に。
妙な空気が流れる。
「二人とも」
「はい!」
「何ですか?」
「ありがとう」
「……はい!」
「……どういたしまして」
俺には、それ以上何も言えなかった。
午前。
大学祭本番に向けた最終確認。
「藤堂くん」
結衣先輩が資料を持ってくる。
「ここ、確認してもらえる?」
「はい」
二人で資料を見る。
「この配置で大丈夫そうです」
「よかった」
結衣先輩が安心したように笑う。
「藤堂くん」
「はい?」
「昨日、楽しかった?」
「前夜祭ですか?」
「うん」
「楽しかったです」
「それならよかった」
結衣先輩が微笑む。
「……先輩は?」
「私?」
「はい」
「楽しかったよ」
少し間を置いて。
「藤堂くんと一緒に回れたし」
「……」
俺は一瞬、言葉を失う。
「どうしたの?」
「いえ」
「顔、赤いよ?」
「暑いだけです」
「ふふ」
先輩が楽しそうに笑う。
「藤堂くんって、分かりやすいところあるよね」
「そうですか?」
「うん」
俺は視線を資料に戻した。
何故か。
昨日から。
こういう言葉に敏感になっている気がする。
昼休み。
「今日もみんなで食べよう!」
莉奈の提案で、中央広場に集まる。
「藤堂くん、昨日のことなんだけど」
「昨日?」
「前夜祭」
「うん」
「楽しかった?」
「楽しかったよ」
「それだけ?」
「それだけ?」
「誰かと二人で話したりした?」
「した」
「誰と?」
「いろいろ」
「……」
莉奈が少しだけ不満そうな顔をする。
「桜井?」
「何でもない」
「そうか?」
「うん」
すると花音が笑った。
「桜井さん、昨日からずっと藤堂くんのこと気にしてますよね~」
「ちょっ、花音!」
「違います?」
「違う!」
「ふふ」
心春も口を開く。
「莉奈先輩、昨日何かありました?」
「何もないよ!」
「そうですか?」
「そう!」
凛が静かに言う。
「……でも」
「?」
「昨日、藤堂先輩は誰かを見ていました」
全員が俺を見る。
「……」
「え?」
俺は固まる。
「誰を見てたの?」
莉奈が聞く。
「……」
俺は答えられなかった。
「藤堂くん?」
「……分からない」
「分からない?」
「ああ」
俺は箸を置く。
「昨日、気づいたら見てた」
「……」
「でも、誰だったのかは……」
言いながら。
俺の頭に。
昨日の光景が浮かぶ。
隣にいた人。
横顔。
笑顔。
「……」
やっぱり。
俺は。
その人のことを考えている。
午後。
ステージ周辺の最終確認。
「藤堂」
葵先輩が呼ぶ。
「はい」
「ちょっと手伝って」
「分かりました」
ステージ裏へ向かう。
「これをここに」
「はい」
二人で作業する。
「藤堂」
「はい?」
「昨日、何かあった?」
「……」
「あなた、少し変よ」
「そうですか?」
「ええ」
葵先輩は俺を見る。
「何か考え事してるでしょう」
「……少し」
「恋愛?」
「……」
図星だった。
「どうして分かるんですか?」
「顔」
「そんなに分かりやすいですか?」
「昨日からずっと」
「……」
「誰か気になる人でもできた?」
「……分かりません」
「そう」
葵先輩は少し笑う。
「なら、焦って答えを出す必要はないわ」
「……」
「好きっていう気持ちは」
「はい」
「気づいた瞬間に全部分かるものじゃないから」
「先輩は……」
「何?」
「そういう経験あるんですか?」
葵先輩は少し黙る。
「……あるわよ」
「そうですか」
「だから分かるの」
先輩は前を向く。
「自分が誰かを目で追っていることに気づいたら」
「はい」
「もう、始まってるのかもしれないわね」
「……」
その言葉が。
胸に残った。
夕方。
作業が一段落する。
「藤堂くん」
莉奈が声をかけてきた。
「何?」
「ちょっと話したい」
「分かった」
二人で人の少ない廊下へ。
「昨日のこと」
「うん」
「誰を見てたの?」
「……」
「答えたくないならいいよ」
「ごめん」
「謝らなくていい」
莉奈は笑う。
「ただ」
「うん」
「ちょっと気になっただけ」
「……」
「私じゃなかった?」
「……」
その質問に。
俺は何も言えなかった。
莉奈の顔が少しだけ赤くなる。
「……ごめん」
「え?」
「変なこと聞いた」
「いや」
「忘れて」
「桜井」
「なに?」
「……まだ、自分でも分からないんだ」
「何が?」
「この気持ちが何なのか」
莉奈は黙って俺を見る。
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
莉奈が笑った。
「分かるまで待ってる」
「……」
「答えが出たら教えてね」
「ああ」
莉奈はそれだけ言って、先に歩いていった。
その日の帰り。
大学の正門。
「藤堂先輩」
凛が立っていた。
「星野?」
「一緒に帰ってもいいですか?」
「ああ」
二人で歩く。
「……」
「……」
静かな道。
「先輩」
「ん?」
「昨日のこと」
「前夜祭?」
「はい」
「何?」
「先輩が見ていた人」
「……」
「私、知ってます」
「え?」
足が止まる。
「誰?」
「……」
凛は答えない。
「星野?」
「まだ言いません」
「どうして?」
「先輩自身が気づくべきだと思うので」
「……」
凛は少しだけ笑った。
「でも」
「はい」
「その人は、先輩が思っているより」
「……」
「先輩のことを見ていますよ」
「……」
そう言って。
凛は先に歩いていった。
「待って」
「はい?」
「それ、どういう意味?」
「秘密です」
凛が笑う。
俺はその背中を見ながら。
また考える。
昨日。
俺が目で追っていた人。
そして。
俺が今、追いかけようとしている人。
「……」
もしかして。
俺はもう。
答えを知っているんじゃないか。
帰宅。
部屋の電気をつける。
スマホを見る。
六人から、それぞれメッセージが届いている。
俺は一つずつ返信する。
そして最後に。
ある一人の名前で指が止まった。
「……」
その名前を見ただけで。
少しだけ嬉しくなる。
メッセージが来ているか。
何を話そうか。
そんなことを考えてしまう。
「……これって」
俺は小さく呟いた。
「好き……なのか?」
まだ。
確信はない。
でも。
今まで感じたことのない感情だった。
誰かと話したい。
誰かの笑顔を見たい。
誰かに自分を見てほしい。
そして。
その「誰か」が。
たった一人だったら――。
俺はスマホを握りしめる。
胸の鼓動が少し速くなる。
「……大学祭が終わったら」
ちゃんと考えよう。
自分の気持ちを。
逃げずに。
ちゃんと。
翌日。
大学祭まで、あと二日。
俺はまだ知らなかった。
大学祭本番の日。
俺たち六人の関係を大きく変える出来事が起こることを。
そして。
俺が初めて。
誰かを「特別な人」として認める瞬間が。
もうすぐそこまで来ていることを――。




