第九話 もう一冊の帳簿
翌朝、わたくしは帳面の新しい頁に、確かめるべきことを三行、書き出した。
一つ。テオの、当日の居場所。
二つ。燭台の、行方。
三つ。令息さまの「見た」という証言の、中身。
訴えは、検分されねばならない。誰もやらないのなら、わたくしがやる。それだけのこと。……そう意気込んで下町へ下りたのだけれど、最初の半日で思い知ったのは、わたくしの聞き方では開かない扉がある、ということだった。
ヴォルマー子爵家に、他家の令嬢が立ち入る筋はない。だから、外堀から。屋敷に出入りする商人、市場の顔役、井戸端のおかみさんたち。ところが、これがまるで駄目だった。わたくしが「先日の神判の件で」と切り出した途端、皆の顔から表情が抜け落ちる。「さあ、あたしらは何も」「お貴族さまのことは、ちょっと」。目が泳ぎ、手が忙しなく動き出し、話は天気の方へ逃げていく。
嘘は、つかれていない。ただ、何も言われないだけ。ああ、これは、あの夜の広間と同じものだ。関わり合いになりたくない、という沈黙。沈黙というものは、下町でも貴族の広間でも、同じ顔をしているのね。
「お嬢様。あの……少しだけ、離れていていただけますか」
三軒目の八百屋の前で、アンナが遠慮がちに言った。わたくしが樽の陰へ下がると、アンナはおかみさんの隣にするりと並んで、籠の芋をひとつ手に取り、値段の話を始めた。芋の値段から、今年の出来の話へ。出来の話から、子爵家の台所は買いっぷりが渋いという話へ。渋いという話から、テオの話へ。
四半刻ののち、アンナは芋を三つ買って戻ってきた。頬を上気させ、声をひそめて。
「お嬢様。あの日……燭台が消えた日、テオちゃんは夜明けから厨房を出ていないそうです。仕込みの日で、料理長さんがずっと目の届くところに置いてたって。料理長さん、今もほうぼうでそう言い張ってるそうで……それから、あの、これはただの噂なんですけど」
「かまわないわ。噂は、糸口の顔をしてやって来るものよ」
「坊ちゃまが……その、賭場に出入りしてるって。このごろは金貸しに追われてるとか、いないとか……」
賭場。借金。消えた銀器。絵は、見えはじめている。けれど絵は、まだ証拠ではない。
昼下がり、市場の搬入口で、わたくしたちは買い出しの料理長を掴まえた。大きな体に、粉の染みた前掛け。テオの名を出すと、彼は素早くあたりを見回して、荷車の陰へわたくしたちを引き入れた。
「……あの日、テオは厨房から一歩も出てねえ。夜明けから晩まで、俺の目の前にいた。神さまに誓ったっていい」
「神さまにではなく、わたくしに誓ってくださいまし。日付と、時刻と、あの子が何をしていたかを」
料理長は面食らった顔をして、それから、ぽつりぽつりと話した。仕込みの段取り。竈の前のテオの持ち場。昼餉の鐘の刻。わたくしは一つずつ、帳面に書き取っていく。書き終える頃、彼は太い息を吐いた。
「あんた、変わったお人だ。……けどな、お嬢さん。俺がいくら言ったって、神判はもう済んじまった。それに、坊ちゃまを疑うようなことは、俺の口からは言えねえ。言えば俺も店を追われる。女房も、子もいるんだ」
「ええ。あなたに言わせようとは、思っておりませんわ」
言うのは、紙にさせる。人には、人の守るものがある。それを差し出せと言える権利は、わたくしには、ない。
賭場に、借金。なら、銀器を金に換えた先があるはず。令息さまが自分の足で運べる先。質屋だ。
アンナの案内で、下町の質屋を回った。一軒目、空振り。二軒目、空振り。三軒目、間口の狭い店の薄暗い奥で、見つけた。布を掛けられた棚の上に、燭台がひとつ。枝が三つの、銀の燭台。
店主の親父は、渋い顔をした。
「……そいつは、訳ありモンだ。悪いが、話せることはねえ」
「では、買い取らせてくださいまし。言い値で。……それから親父さん、あなた、帳簿はおつけになって?」
「当たりめえだ。うちは真っ当な商いだ。いつ、誰が、何を持ち込んだか、全部書いてある」
「その一行が、あなたを守りますのよ。盗品と知って買ったのではないと、あなたの帳簿が証してくれる。……そして同じ一行が、子どもの手をひとつ、救うかもしれませんの」
親父は長いこと、わたくしの顔と燭台とを見比べていた。「妙なお嬢さんだ」と、しまいに笑った。それを言われるのは、今日、二度目ね。やがて黙って奥へ引っ込み、分厚い帳簿を抱えて戻ってくる。ひび割れた指が、頁を繰った。
「……これだ。持ち込みは、十日の夕。上物の外套の若いのだった。フードを目深に被ってたが、留め金に紋が入ってた。双頭の鷲だ。見間違えねえよ、彫り物は俺の商売のうちだ」
十日の夕。燭台が消えたと屋敷で騒ぎになったのは、十一日の朝。盗まれるより前に、質に入っている銀器。そして双頭の鷲は——ヴォルマー子爵家の、紋章。
わたくしは帳簿のその頁を、日付ごと一字一句、写し取った。指が、速くなる。この感じを知っている。あの夜、診断書の矛盾に気づいたときと同じ。紙と紙が、噛み合っていく音がする。
その晩、屋敷の机の上に、わたくしは集めたものを並べた。
料理長の証言、日付と刻限つき。質屋の帳簿の写し。買い戻した燭台の現物。テオは、厨房から出ていない。燭台は騒ぎの前日に、子爵家の紋を着けた若者の手で、質に入れられている。
「これで……これで、あの子、助かるんですよね」
茶を運んできたアンナの声は、露ほども疑っていなかった。ええ、と答える。答えてから、自分の声の平たさに、自分で気づいた。
聖堂の隅で、布を巻かれたあの小さな手が、今ごろどうなっているのか。考えても仕方のないことを、考える。膿むか、癒えるか。……どちらであろうと、明日、この紙の束が間に合えばいい。それだけの話のはずだ。
揃った。あの夜のわたくしの帳面より、よほど揃っている。
なのに。
ペンを置いても、胸の底の何かが、晴れなかった。
証拠が足りなくて負けたことは、まだ一度もない。けれど、証拠が揃っていて、それでも負けるということが——この世にあるのかどうか。それを、わたくしはまだ知らない。
検分は、明日。
帳面を閉じて、わたくしは小さく呟いた。
「明日、教えていただきましょうか。この国の裁きが、紙を読めるのかどうか」
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