第八話 帳面を持たない子
下町というところへ、わたくしは生まれて初めて足を踏み入れた。
地味な木綿のドレスに、飾りのない外套。侯爵家の紋の入ったものは、髪留めひとつ身につけていない。それでも市場の雑踏を歩けば、すれ違う人がちらちらとこちらを見る。……何かが、違うらしい。歩き方かしら。それとも、佇まい。
「お嬢様、こちらです。……あの、本当に、広場へ?」
先に立つアンナは、水を得た魚のようだった。荷車を避け、呼び込みの声をかわし、露店の間の近道をすいすいと抜けていく。この子は下町の生まれだと、雇い入れの書付で読んだ覚えがあった。書付で読んだだけで、本人に尋ねたことは一度もなかった——と、歩きながら気づく。三年も、そばにいるのに。
散策だと言って連れ出したのに、わたくしの足が広場へまっすぐ向かうものだから、アンナはとうに察している。それでも黙ってついてくるのだから、本当に、仕方のない子。
広場は、人で埋まっていた。
祭りかと見紛う人出。けれど、屋台の一つも出ていない。人垣の中心には石の台座が据えられ、白い法衣の司祭が立ち、その傍らの小さな炉から、細い煙が上がっている。炉の中で何が熱されているのか、わたくしは知識として知っていた。知識として、だけ。
人垣の後ろのほうでは、男たちが顔を寄せ合って、銅貨を握っていた。膿むか、癒えるか。……賭けて、いるのだ。人ひとりの裁きの首尾に。誰も咎めない。ここでは、それが普通の景色らしい。
「来たよ、あの子だ」
人垣がざわめいて、割れた。
引き立てられてきたのは、小さな子どもだった。十二、三というところかしら。瘦せた手足に、継ぎの当たった仕着せ。ヴォルマー子爵家の厨房で働く子だと、周りの野次馬たちが囁き交わしている。名は、テオというらしい。
わたくしは、耳を澄ませた。囁きを拾い、胸の内の帳面に書き留めていく。消えたのは、銀の燭台がひとつ。見たと証言したのは、子爵家の令息さま。テオは一貫して、盗っていないと言っている。燭台は、まだ見つかっていない「料理長は、あの子じゃないって言い張ってるらしいよ」。誰かの声が、それに付け足した。……それだけ。集めても集めても、本当に、それだけしか、ないのだ。
「静粛に」
司祭が両手を広げ、群衆が水を打ったように黙った。
「これより、神判を執り行う。訴えは、ヴォルマー子爵家の銀燭台の窃盗。訴えられたるは、厨房働きのテオ。……テオよ。罪を認めて慈悲を乞うなら、今のうちである」
「盗ってません」
少年の声は、細いのに、まっすぐだった。
「僕は、盗ってません」
「では、神に問う。熱した鉄を持て。無実の者の手は、神が守りたもう。偽りを申す者の手は、神の火が灼くであろう」
……待って。
声が、喉元まで出かかった。おかしいでしょう。令息さまの「見た」という言葉は、どこで確かめられたの。燭台の行方は、誰が探したの。この子の当日の居場所を、誰か一人でも調べたの。訴えと、否認と、それから鉄。この裁きには、それしかない。「調べる」という段が、頭から終わりまで、どこにも、ない。
幼い頃、父の書斎で盗み読んだ講義録に、こんな一文があった。『訴えは、検分されねばならない』。退屈で、意味も分からず読み飛ばした一文が——いま、目の前のこの空白を、まっすぐに指している。
一歩、踏み出しかけて、止まった。
何と言うつもり? 「その子は無実です」と? 証拠は? わたくしは、この子の何を知っているというの。今日はじめて顔を見て、さっき名前を聞いた。それだけ。証拠もなしに無実を叫ぶことは、証拠もなしに罪を叫んだあの夜のクラウス様と、同じ口になるということ。わたくしの信じてきたものが、わたくしの足を、この場に縫いつけている。
あの夜のわたくしには、三冊の帳面があった。今日のわたくしは、丸腰だ。
炉から、鉄が引き出された。先まで赤く灼けた、細い鉄の棒。人垣がどよめき、幼子を連れた母親が、子の目を掌で覆った。
テオの目が、泳いだ。助けを探して、人垣を、ぐるりと。誰もが目を伏せていく中で、一瞬だけ、わたくしと目が合った。
知らない令嬢がひとり、目を逸らさずにいる。それがあの子の何になったのかは、分からない。けれど、わたくしは逸らさなかった。見届けると決めて、来たのだから。何もできないのなら、せめて、見ていることだけは。
……せめて、ですって。
銅貨を握る男たちと、目を逸らさないだけのわたくしと、いったい何が違うというの。あの夜、わたくしの潔白を余興として楽しんだ方々を、わたくしは冷たいと思った。今、その観客席に立っているのは、わたくしのほうだ。
テオは唇を結んで、両手を差し出した。
その直後の音を、どう書けばいいのか、わたくしは知らない。じゅ、という短い音と、少年が呑み込みそこねた悲鳴と、群衆の、ため息とも歓声ともつかないどよめき。アンナが、わたくしの袖をちぎれるほどに掴んだ。
「神判は成された。三日ののち、傷を検分する。神が癒やしたもうたなら、無実。膿み爛れたるなら、神罰である。それまで、この者は聖堂の預かりとする」
司祭の声は朗々として、疑いというものを知らなかった。
人垣が崩れて、散っていく。芝居がはねた後のように、口々に感想を言い合いながら。あの子は台座の脇で、布を巻かれた両手を胸に抱えて、小さくうずくまっている。駆け寄る親の姿は、ない。
「お嬢様……帰りましょう。ね、お嬢様……。あの子、あのままじゃ……」
アンナの声は、掠れていた。言いかけて、続く言葉を持たないまま、唇を結ぶ。優しいこの子には、毒な見世物だったでしょうね。連れてきたことを、少しだけ悔いる。……少しだけ、よ。
「ええ、帰りましょう。それで——アンナ」
わたくしは、外套の紐を結び直した。指先は、もう言うことを聞く。あの夜と同じ。一度詰まって、それから、動き出すときの感じ。
「散策は、明日も続きますわよ。調べたいことが、できましたの」
火傷の治りを待つのに、三日。神さまのお返事とやらに、三日。
なら、その三日は、人の手でも使えるはず。神より先に、確かめてみせますわ。
読んで下さりありがとうございました!
★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!
Youtubeにて作品公開中!
http://www.youtube.com/@mizukara-h2z
ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。




