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第七話 勝利の後の、静けさ

 断罪の夜から、六日が経った。

 世界は、驚くほど静かだった。

 いや、正確に書こう。静かになったのは、わたくしの周りだけだ。王都の社交界は、むしろ賑やかなはずだった。アーベライン家の嫡男が婚約者に濡れ衣を着せて自滅した。聖女さまの涙が偽物だった。侯爵家の令嬢が、卒業夜会を「サイバン」とやらに変えてしまった。話の種として、これほど上等なものもない。

 現に、屋敷には毎朝、手紙が届く。

「本日は、五通でございます」

 アンナが差し出した銀盆の上を、わたくしは順に検分した。『無実の証明、心よりお慶び申し上げます』。型通りの祝辞が、三通。差出人はいずれも、父の代から義理のある家。慶びの言葉の下に、これ以上は関わりたくないという本音が、透かしのように漉き込まれている。残る二通は、夜会の招待状。差出人の家名には、聞き覚えがあった。噂話に目がない夫人の家と、余興に金を惜しまない伯爵の家。

 なるほど。見世物の、追加公演のご依頼ね。

 わたくしは五通とも、文箱の底へ仕舞った。返事は型通りに。出席は、しない。

 勝てば何かが戻ってくると、思っていたわけではない。けれど、知らなかったのだ。軽蔑が畏怖に変わっただけでは、人との距離は一寸も縮まらないのだと。以前のわたくしは「聖女を虐げた悪女」で、今のわたくしは「何もかも帳面に書き留めている、恐ろしい令嬢」。避けられる理由が、変わっただけ。廊下ですれ違う侍女たちは、以前より深く頭を下げて、以前より足早に去っていく。

 屋敷の中でさえ、それだ。

 そういえば数日前、アンナがひどく言いにくそうに、教えてくれた。社交界でわたくしに、渾名がついたのだという。曰く、「帳面の君」。……悪くないわね、と思わず口にしたら、アンナは何とも言えない顔をした。たぶん、慰めの言葉を用意してくれていたのだと思う。ずれているのは、いつだってわたくしの方だ。

 昼過ぎに、アーベライン家から使いが来た。婚約解消の、正式な文書。三年間が、紙一枚で終わる。あの顔合わせの夜、剣技会の武勇伝を七人と数え直してしまった、あの夜から始まった三年が。末尾の署名、クラウス様の字は、記憶にあるものより、ずっと乱れていた。

 わたくしはそれを二度読み、封筒に戻し、帳面を開いて一行だけ書いた。婚約解消の文書、受領。日付。……ペンを置いてから、しばらく、自分の書いたその一行を眺めていた。三年が終わった感想を続けて書こうとして、何も出てこなかったのだ。悲しいのではない。清々しいのでもない。強いて言うなら、勘定が合った、というだけ。こういうとき、他のご令嬢たちは、いったい何をお書きになるのだろう。

「お嬢様」

 アンナが、お茶を替えに来た。この六日、この子は何かにつけて部屋へ来る。お茶を替え、カーテンの襞を直し、用もないのに窓を拭く。心配、されているのだ。それくらいは、わたくしにも分かる。

「昨夜も、遅くまで灯りが点いておりました。その……少し、お休みになっては」

「必要のないことよ。戦は終わったのだから、疲れることも、もうないでしょう」

 アンナは何かを言いかけて、口を閉じた。茶器の盆を胸に抱え、一礼して下がっていく。扉が閉まる寸前のその横顔が、少しだけ泣きそうに見えたのは——気のせいかしら。

 そういえば、と思い出す。あの夜の礼のつもりで、今月の給金に色をつけるよう、家令に申しつけておいた。それを知ったアンナは、嬉しそうな顔を、しなかった。むしろどこか、傷ついたような顔をした。

 何か、間違えたのかしら。帳面を運んでくれた働きに、報いたつもりだった。働きには、対価を。それが正しい勘定のはず。なのに、あの顔。分からない。人の心のこういうところが、わたくしには昔から、いちばん分からない。

 夕暮れの部屋で、わたくしはまた帳面を開いた。

 癖に、なっている。戦いは終わったのに、指が勝手にペンを取る。書くことなど、もう大してありもしないのに。今日届いた手紙の数。婚約解消の文書。アンナの、泣きそうな横顔。……それも書くの? と自分に呆れて、ペンを置く。

 この盾は、役目を終えたはずだ。なのになぜ、まだ手放せないのだろう。いつか書くことが、祈りに似ていると思ったことがある。祈る相手を持たない者の、祈り。……戦が終わっても、祈りだけが癖として残った、ということなのかしらね。

 答えの代わりに、廊下の話し声が、扉越しに滑り込んできた。洗濯係の娘たちの、ひそめたつもりの声。

「——それでね、神判にかけられるんですって、三日後」

「まあ、おかわいそうに。銀の燭台なんて、あの子が盗るはずありませんわ」

「皆そう言ってるの。でも、お屋敷の坊ちゃまが『あいつを見た』って仰ったのよ。神判で決まってしまえば、もう……」

 足音が遠ざかって、声は聞こえなくなった。

 わたくしは、閉じたばかりの帳面を見下ろした。

 どこかの屋敷の、下働きの子。銀の燭台。あの子のはずがない、と皆が言っている。……言っている、だけ。誰も、証してはくれない。六日前のわたくしと同じ場所に、いま立っている誰か。違いはただ一つ。わたくしには三冊の帳面があって、その子には、たぶん、何もない。

 証拠を残せなかった人は、どうなるのだろう。

 あの夜、馬車を待ちながら考えた問いが、名前と顔を持って、扉の外を通り過ぎていった。

 三日後。広場で、神判。

 見に行こう、と決めたのは、なぜだったのだろう。憐れみでは、ないと思う。義憤と呼ぶには、わたくしの胸はまだ冷たい。強いて言うなら、確かめたかったのだ。帳面を持たない者の裁きが、どういうものであるのかを。この目で。

 侯爵家の令嬢が、広場の神判を見物に行く。外聞のよろしい話ではないでしょうね。お忍びの支度がいる。それから、供がひとり。……アンナには、下町の散策とでも言っておきましょう。あの子はきっと、疑いもせずに喜んでついてくる。その顔を思い浮かべたら、なぜだか少しだけ、胸の勘定が軽くなった。

 わたくしはペンを取り直して、帳面の新しい頁に、一行だけ書いた。

 ——三日後、広場。神判。見届けること。


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