第六話 断罪の終わり、あるいは始まり
「判決」という言葉に、広間がひそやかに息を呑んだ。誰も聞いたことのない言葉。けれど、意味の分からない者は、もうこの広間にひとりもいない。
わたくしは三冊の帳面に、順に手を置いた。一年ぶんの夜が、指の下で静かに眠っている。
「罪状、ひとつ。階段からの突き落とし。——当日、わたくしは西棟の講堂におりました。学院の出席簿と、この場においでの証人が、それを証しました。罪状、ふたつ。茶会での毒。——末席のわたくしの手は、主賓の隣の杯には届きません。当日の席次表と、診断書と、聖堂のイリス様ご自身が、それを証しました。罪状、みっつ。夜ごとの脅迫文。——筆跡はわたくしのものではなく、紙はわたくしの家のものではない。文そのものが、それを証しております」
ひとつ数えあげるごとに、広間の静けさが深くなっていく。三百人の呼吸の音さえ、もう聞こえない。
「三つの罪状、いずれも、証拠なし。よって、この断罪は——」
わたくしは閉じた扇を、まっすぐに床へ向けた。
「無効、ですわ」
息を、継ぐ。扇の先は、床へ向けたまま。
「そして、あとに残りましたのは。偽りの嘆願書という名の、捏造文書が一通。証拠なき告発をなさった殿方が、おひとり。涙を証拠と偽った令嬢が、おひとり。……わたくしに、この方々を罰する権限はございません。裁くのは、わたくしの仕事ではありませんもの」
わたくしは、ゆっくりと広間を見渡した。三百の目を、端から端まで。
「皆さまが、ご覧になりました。皆さまが、お聞きになりました。ですから、あとのことは——皆さまが、それぞれの目で、お決めになってくださいまし」
それが、わたくしの判決だった。言い渡す罰も、振り下ろす剣も持たない、紙と言葉だけの判決。
拍手は、なかった。歓声も。代わりに起きたのは、もっと静かで、もっと恐ろしいものだ。衣擦れの音。三百人が、いっせいに、半歩ずつ、二人から離れていく音。
クラウス様が、何かを言おうと口を開いた。誰も、聞いていなかった。視線を求めて泳いだ先で、扇が閉じられ、顔が背けられ、背中が向けられていく。ああ、あの景色。わたくしが一年かけて味わったものを、あの方はこれから、一晩で。
「ち、父上に……ちがう、俺は、俺はただ……」
膝が、床についた。この国でも指折りの大貴族の嫡男が、卒業夜会の壇の下で、誰にも支えられずに崩れている。壁際からようやく、学院の教師たちが重い足取りで歩み出た。「アーベライン様。イリス様。……お話を、伺わせていただきます」。事の後始末というものは、いつだって、祭りのあとに来るのだ。
イリス様は、もう泣かなかった。素の顔のまま、一歩、後ろへ下がる。けれど今夜はじめて、その一歩のために、誰も道を開けなかった。人垣は壁のまま、あの方を静かに閉じ込めている。一歩下がるたびに世界が味方した、あの方の魔法。それは今夜、この広間で切れた。
人垣の中に、お母様の姿を探した。……もう、どこにもなかった。娘の勝敗を見届けもせず、いつの間にか、消えていらした。ええ、存じておりますとも。そういう方なのだ、あの方は。
「——見事」
嗄れ声がして、老公が杯を掲げた。
「サイバン、とやら。存外、悪くない見世物であった」
見世物。ええ、それでけっこう。今夜のところは、それで。……いつか、見世物ではなくしてみせますけれど。ふと胸のどこかでそんな言葉が生まれて、わたくし自身が、いちばん驚いていた。
と、そのとき。拍手が、ひとつだけ、鳴った。
人垣の外れ、柱の傍。背の高い青年が立っていた。夜色の礼服は異国の仕立てで、灯りを受けた髪は、銀。見覚えのない顔。来賓の席の方かしら。彼は手を二度だけ打ち合わせて、やめた。誰も続かない、たったひとりの拍手。勝った者を讃える手つきでは、なかった。強いて言うなら、指し手の一手に送る拍手。何に打たれたのかしら、あの方は。
目が、合った。
嘲りではない。値踏みでもない。損得の色なら、わたくしにも読める。けれど、あの目の色は、読めなかった。強いて言うなら——砂の中から、何かを掘り当てた人の目。
わたくしが瞬きをした、その短いあいだに、青年は人垣の向こうへ消えていた。名前も、素性も、拍手の理由も、何ひとつ残さずに。
「お嬢様……! お嬢様ぁ……!」
広間を辞したところで、アンナが駆けてきた。空になった手文庫を抱えたまま、ぼろぼろに泣いている。
「見ました、わたし、ぜんぶ見ました……! お嬢様が、あんなにたくさんの人の前で、おひとりで……!」
「泣くことはないでしょう。勝ったのよ、わたくしたち」
「……はいっ」
アンナは洟をすすって、大きく頷いた。わたくしたち。口に出してから、自分の言葉に、少しだけ驚く。……まあ、いいでしょう。帳面を運んだのは、あの子の足なのだから。
「だってぇ……!」
労いというものの受け取り方を、わたくしは知らない。仕方なく、ハンカチを差し出した。アンナはそれを両手で押しいただいて、余計に泣いた。本当に、仕方のない子。……けれどこの子は今夜、逃げなかった。ただひとり。
馬車を待つあいだに、帳面の最後の頁を開いて、三つの覚え書きを書きつけた。言いさされた「俺ひとりの考えでは」。それを摘み取った、白い指。そして、お母様の視線の先にあった、何か。……宿題は、逃げない。今夜のところは、頁を閉じておく。
夜気の中で馬車を待ちながら、わたくしは自分の胸の内を、帳面をめくるように確かめてみた。
勝った。それは確かだ。婚約は消え、濡れ衣も消えた。では、この静けさは何?
わたくしは、正しかったから勝ったのではない。記録を、たまたま残せたから勝ったのだ。お父様の手紙がなかったら。帳面を思いつかなかったら。今夜のわたくしは、あの床で泣きながら無実を叫び、叫べば叫ぶほど、見苦しい罪人にされていた。真実は同じでも、結末はまるで違っていた。今夜のわたくしと破滅とのあいだにあったのは、正しさではなく、十月の準備と、ほんの少しの偶然だけ。
膝の上の手文庫を、指先で撫でる。この盾は、わたくしひとりの寸法でしか、作られていない。
そして、この国の裁きは、明日も変わらずに続いていく。涙と、誓いと、声の大きさで。
帳面を持たずに生まれてくる人々は——明日、誰に裁かれるのだろう。
勝利の味は、思っていたよりも、ずっと薄かった。
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