第五話 悪あがき
素顔は、一瞬で仕舞われた。
次の瞬きのあとには、イリス様の瞳はもう潤み、眉は儚げに下がっている。見事な早業だった。けれど、一度見てしまえば分かる。あれは衣装替えだ。舞台袖のない場所で、あの方はいま、演目を替えたのだ。そして観客のうち、その衣装替えを見たのは、わたくしひとり。……けっこう。役者の素顔を知っている観客ほど、芝居に強い者はいないのだから。
「……ひどい」
か細い声が、広間に落ちた。か細いのに、客席のいちばん後ろまで届く声だった。
「エルヴィラ様は、侯爵家のお力で、わたくしを押し潰すおつもりなのですわ……。帳面ですって? 署名ですって? そんなもの、侯爵家のお立場があれば、いかようにも口裏を合わせられますもの……」
なるほど。今度は、権力の被害者。
広間が、わずかに揺れた。「言われてみれば、侯爵家と男爵家では……」「大勢で寄ってたかって、弱い者いじめでは……」。それは効くのだ、この社交界では。家格を笠に着る者への反感は、身分の上下を問わず、誰の胸にも一粒はある。げんに幾人かの視線が、値踏みの色を取り戻して、わたくしへ戻ってくる。
「イリス様。ひとつだけ、伺ってもよろしくて」
わたくしは扇の先を、自分の胸元に当てた。
「権力で揉み消したい人間が、一年もかけて記録を綴り、席次表を拾い集め、よりにもよって三百人の皆さまの前で、それを開くと思われます? 揉み消しとは、裏でやるものですわ。人目を避けて、静かに。……わたくしがしておりますのは、その逆でしてよ。どうぞ照らしてくださいましと、申し上げているの。学院の出席簿を。教師方の記憶を。皆さまの、その目を」
返ってくる囁きは、なかった。イリス様の言葉に頷きを返す声が、ひとつも上がらない。この広間はもう、涙の量ではなく、理屈の重さで傾き方を決めはじめている。沈黙が、答えだった。まったく、忙しい風向きだこと。
「く……くくっ」
低い笑いが、聞こえた。クラウス様だった。俯いた肩が、笑いの形に揺れている。
「そうだ……そうだよな。お前は、そういう女だ」
顔を上げたその目は、もう取り繕うことをやめていた。
「捏造だなどと、言うだけ無駄か。お前は間違えない。ああ、知っているとも! 三年間、嫌というほど思い知らされてきたからな!」
声が、割れた。三年ぶんの何かが、裂け目から溢れ出してくる。
「婚約の顔合わせの夜を、覚えているか。俺が剣技会の話をしたら、お前は何と言った? 『十人抜きとお聞きしましたが、記録では七人ですわ』……ああそうだよ、七人だよ! 誰も気にしていない数字を、お前だけが数えている! 俺が何を話しても、お前はまず間違いを探す! 父上も、家庭教師どもも、口を揃えて言った。クロスフィールドの令嬢を見習え、とな! 俺の婚約者は、俺を測る物差しだった! その物差しが、いつもいつも、その目で、俺を見下して……!」
「見下したことなど――」
「イリスは笑うんだ!」
叫びが、わたくしの言葉を断ち切った。
「俺の話に頷いて、笑ってくれる! 七人だろうが十人だろうが、すごいと言ってくれる! お前と、違ってな!」
広間は、静まり返っていた。それはもう、告発の声ではなかった。誰の耳にも、ただの恋の言い訳と、罪の白状に聞こえたはずだ。証拠を拵えてでも婚約者を挿げ替えたかった理由を、この方は自分の口で、三百人に説明してしまった。
誰かの扇が、ぱたりと閉じられた。哀れみとも軽蔑ともつかない吐息が、あちこちで漏れる。そしてイリス様だけが、隣で真っ白な顔をしていた。台本にない独白を始めてしまった相方を見る、役者の顔だった。
わたくしは、閉じた扇を握り直した。見下したつもりは、本当に、なかった。数字が違えば、正したくなる。ただそれだけの女なのだ、わたくしは。褒め方というものを、誰にも習わないまま育った。正しくあること。確かめられること。父を早くに亡くした幼いわたくしの手に残されていたのは、結局、それだけだったから。あなたの隣で笑う方法を、わたくしが知っていたなら――何かは、違ったのかしらね。
壁際で、アンナが両手を握りしめて、一歩、前へ出かけていた。何かを叫びたいのを、侍女の分をわきまえて、懸命に堪えている顔。……いいのよ、アンナ。これは、わたくしの戦なのだから。
知らない。分からない。けれど。
「だからといって」
声は、思ったよりも静かに出た。
「わたくしを罪人に仕立てて良い理由には、なりませんわ」
「う、うるさい、うるさいうるさい! だ、だいたい、この婚約破棄は俺ひとりの考えで――」
言いかけて、クラウス様の口が、止まった。
イリス様の白い手が、素早く彼の袖を引いていた。ほんの一瞬の、それだけの仕草。けれど、わたくしは見た。彼の続く言葉を、あの細い指が摘み取ったのを。
……俺ひとりの考えでは、何だと言うの。誰かに、けしかけられたとでも?
帳面に書き留めたい衝動を、わたくしは指先で抑えた。考えてみれば、おかしな話ではあるのだ。大貴族の嫡男が、男爵令嬢ひとりの涙のために、卒業夜会の差配をわざわざ引き受け、これだけの舞台を整えた。費えも、根回しも、招待客の顔ぶれさえも。……今夜のこの舞台を誰よりも楽しみにしていたのは、本当に、この二人だけなのかしら。
ふと、人垣の向こうに、お母様のお顔が見えた。いらしているのは知っていた。助けを期待したことは、一度もない。それは、いい。慣れている。ただ――お母様の視線は、わたくしにも、クラウス様にも向いていなかった。広間の、どこか別の一点。扇の陰のその横顔が、なぜだか、ひどく強張って見えた。
考えるのは、後。今夜のわたくしの仕事は、目の前の幕を引くこと。
クラウス様は肩で息をして、もう言葉を探してもいない。イリス様は目元に指をやり、その指が、乾いたまま止まった。涙が、出てこないのだ。一年のあいだ、あれほど尽きることのなかった泉が、三百人の値踏みの視線の前で、干上がっている。
わたくしは扇を、ぱちり、と鳴らして閉じた。その小さな音が届く先々から、ざわめきが消えていく。誰もが知っているのだ。次に来るものが、何であるかを。広間の奥で、老公が静かに杯を置いた。
「それでは、皆さま」
息を、ひとつ。
「――判決に、参りましょうか」
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