第四話 涙は証拠にならない
「よ、夜も更けた! 皆も、お疲れであろう……こ、この件は、後日、しかるべき場で改めて――」
ぱちり、と音がした。
誰かの扇が、閉じられた音だった。ぱちり。ぱちり。応えるように、広間のあちこちで扇が閉じられていく。声はひとつもない。ただ幾十もの小さな音だけが、さざ波のように壇上へ寄せていく。続けよ、と。この社交界の作法で、それ以上に雄弁な言葉を、わたくしは知らない。
クラウス様の喉が、上下した。味方を探して泳いだ視線が、閉じられた扇の列に阻まれて、行き場を失う。
皆さまは、わたくしの味方ではない。ただ、退屈がお嫌いなだけ。……今夜は、それで充分ですわ。
「では、毒のお話ですわね。嘆願書には何と? クラウス様、読み上げてくださいまし」
「……ふ、二月前。学院後援会の、茶会だ。貴様がイリスの杯に、て、手ずから茶を注ぎ……その直後に、イリスは激しい眩暈と吐き気に襲われた……!」
「手ずから。わたくしが。イリス様の杯に」
ひとことずつ確かめながら、わたくしは帳面から一葉の紙を抜き出した。当日の席次表。使い終えれば捨てられるはずだった、ただの紙切れ。
「わたくしの席は末席。イリス様は主賓のお隣。間に、十四人。茶を注ぐのは招かれた客ではなく、家の侍女の務めですわ。末席の令嬢が卓を半周して、主賓の杯に手ずから注いでまわれば――それはもう、毒を盛る前に余興でございます」
くすくすと、笑いが漏れはじめた。その、とき。
「――で、ですが!」
イリス様が、今夜はじめて、自分から声を張った。控えていた侍女の手から一枚の紙を受け取り、頭上に掲げる。
「診断書が、ございます……! あの日、わたくしを診てくださった、ドラン先生の……! 毒物による中毒の症状と、はっきりお書きくださっています……!」
広間が、揺れた。
「診断書……」「お医者様が、そう仰るのなら……」「症状そのものは、あったということ……?」
――読めていなかった。
帳面の上で、わたくしの指が、行き場を失った。医師。診断書。三冊の帳面の、どの頁にも、その一枚は存在しない。わたくしの記録は、わたくしの目が届いた場所しか写し取れない。診察室の中までは、届かないのだ。
イリス様の頬に、涙が戻ってくる。今度のそれは、勢いというものを取り戻した涙だった。
「わたくし、本当に苦しかったのです……! 三日も、寝台から起き上がれませんでした……! それでもわたくし、エルヴィラ様を庇って、庇い続けて……!」
「そうだ、見ろ! これが証拠でなくて、何だと言うのだ!」
クラウス様が、息を吹き返す。閉じられたはずの扇が、ひとつ、ふたつと、また開いていく。風向きが、戻っていく。わたくしの側から、離れていく。一年かけて組み上げた盾に、届かない場所があった。その一点を、いま、突かれている。
……騒ぐな、と。胸の奥で、あの手紙の字が言った。
ええ、騒ぎません。確かめるだけ。
「――その診断書を、拝見してもよろしくて」
声は、揺れなかったはずだ。指先のことは、知らない。
イリス様は一瞬ためらい、それでも勝ち誇るように、紙を差し出した。受け取って、目を落とす。広間が静まり返り、紙の乾いた音だけが響く。日付、茶会の当日。所見、毒物による中毒の疑い。処方、三日の安静を要す。医師の署名。……綻びを、探す。読み返す。もう一度。
ない。
この紙は、この紙の中では閉じている。帳面をめくっても無駄なことは、めくる前から分かっていた。あの日の頁にあるのは、席次と客の名だけ。診察室のことも、その後のイリス様のことも、わたくしの目は追っていない。わたくしの盾は、ここで尽きる。
沈黙が、長すぎた。イリス様の唇の端が、ゆっくりと持ち上がっていく。
「……あの」
そのとき。遠慮がちな声が、広間の中ほどで上がった。
「その日の午後でしたら……わたくし、聖堂でイリス様をお見かけいたしましたわ。奉仕の会で。御髪に白百合を挿されて、讃美歌の先唱をお務めで……その、とても、お元気そうに……」
見覚えのない、若い令嬢だった。言ってしまってから、自分の声の大きさに驚いたように、扇で口元を隠す。けれど、もう遅い。三百人が、聞いた。
わたくしは、一拍だけ目を閉じた。
……わたくしの帳面が届かない場所を、皆さまの目が、見ていてくださった。
「今、確かに伺いましたわね」
診断書を持つ手に、力が戻る。
「イリス様。この診断書は、三日の安静を命じております。あなたご自身も、先ほど、三日起き上がれなかったと仰いました。……では、その同じ日の午後、聖堂で讃美歌の先唱をお務めになったのは——どちらのイリス様ですの?」
イリス様の笑みが、頬に貼りついたまま、止まった。
「この診断書が本物なら、その午後、聖堂で歌っていらしたのは、どなた? あの方の記憶が本物なら、この診断書は、何かしら? どちらかが、偽りですわ。そして――どちらが偽りであっても、偽ったのは、わたくしではございません」
扇が、閉じられていく。ぱちり、ぱちりと。今度は壇上の、二人へ向けて。
敵の出した紙と、見も知らぬ方の記憶。今夜のこの一手は、わたくしの帳面の、外から来た。……こんな勝ち方があることを、わたくしは、初めて知った。膝の上の指先は、まだ言うことを聞かないけれど。
「さ、三つ目の罪状は、だな――」
クラウス様が声を張り上げかけた、そのときだった。
「透かしは、あるのか」
広間の中ほどから、声が飛んだ。若い貴公子だった。続いて、別の声が重なる。「筆跡は? 学院に照合の先があろう」「侯爵家の便箋なら、家紋が漉き込まれているはずですわ」
……まあ。
教えた覚えは、ございませんのに。
クラウス様は手の中の脅迫文とやらに目を落とし、それから、顔色で答えを言った。透かしのない安紙。誰のものとも知れぬ筆跡。広間はもう、わたくしの説明を必要としていなかった。今夜この場所で、皆さまは「確かめる」ということを、覚えはじめている。
「ち、ちがう……ちがうのです、わたくしは……」
イリス様の涙が、最後の力を振り絞るように頬を伝う。けれど、いつもなら真っ先に駆け寄るはずの取り巻きの令嬢たちが、半歩、身を引いている。すがる視線の先で、目が、するりと逸れていく。人が離れていく側の景色を、わたくしはよく知っている。世界のほうが静かに遠ざかっていく、あの冷たさを。一年かけてあなたがわたくしに教えてくださったものが、いま、あなたの周りで起きているのよ、イリス様。
わたくしは一度だけ目を閉じて、それから、静かに告げた。一年前、泣くことしかできなかったわたくし自身にも、届くように。
「ですから、申し上げましたでしょう。――涙は、証拠ではありませんと」
イリス様の睫毛が、止まった。頬の途中の涙だけが、行き場をなくして顎先へ落ちる。
そして、ほんの一瞬。おそらくわたくしにしか見えなかった一瞬、潤んだ瞳の奥から、濡れた光だけが、すっと引いた。残ったのは、乾いた目。祭壇の聖女のものではない。損得を素早く弾き直す、商人の目だ。
涙も微笑みも、わたくしには昔から読めない。けれど、損得を数える目なら読める。あれは、証拠と同じ言葉を話すから。一年のあいだ、わたくしが戦わされてきたのは、聖女という名の着ぐるみだった。その中身と、いま初めて、目が合った。
あら、と思う。
ようやく、素顔のお出ましね。
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