第三話 記録という名の盾
「茶番を、まだ続ける気か」
クラウス様は吐き捨てた。けれど、この場を打ち切る号令は、いつまで経っても出てこない。出せないのだ。三百人の招待客が、固唾を呑んでわたくしの手元を見つめている。見世物の幕を、主催者の側から下ろすわけにはいかない。
「よいではないか、アーベラインの若君。余興としては、近年まれに見る上等だ」
広間の奥から、面白がるような嗄れ声が上がった。白髭の老公が、酒杯を軽く掲げてこちらを眺めている。あちこちで、忍びやかな同意のさざめき。クラウス様は唇を噛んだ。この方々にとって、わたくしの潔白も、わたくしの破滅も、等しく今夜の余興でしかないのだろう。それで、いい。見物人のいない舞台では、幕は上がらないのだから。
「続けるも何も、まだ始めてもおりませんわ」
わたくしは帳面に指を置いたまま、まず彼の手の中の紙へ目を向けた。
「その嘆願書とやらを、伺わせてくださいまし。わたくしがイリス様を階段から突き落とした——それは、いつ、どこでのお話ですの?」
「な……」
「あら、ご存じないの? 罪を告げる方が、日付も場所もご存じないなんて」
広間のどこかで、小さく笑いが漏れた。今度のそれは、わたくしに向けられたものではない。クラウス様は顔を赤くし、慌ただしく嘆願書へ視線を落とした。
「せ、先月の十七日……昼休みの終わり、南棟の大階段だ! イリスは背中を押され、六段を転げ落ちた。ここに、そう書いてある!」
「先月の十七日。昼休みの終わり。南棟の大階段」
わたくしは、ひとことずつ、確かめるように繰り返した。言葉というものは、宙に浮いているうちは、いくらでも形を変える。だから杭を打つ。日付という杭を。場所という杭を。逃げられないように。
「イリス様。相違ございませんこと?」
水を向けると、イリス様の唇がかすかに開いた。何かを言いかけて、言葉にならない。その一瞬の空白を埋めるように、クラウス様が一歩前へ出た。
「イリスに直接口をきくな! 相違ない、嘆願書のとおりだ!」
「けっこう。では——」
わたくしは帳面をめくった。乾いた紙の音が、静まり返った広間に、思いのほか大きく響く。目当ての頁は、探すまでもない。昨夜のうちに、栞を挟んでおいたのだから。
頁は、線で四つに仕切ってある。日付。場所。居合わせた方。起きたこと。ただそれだけを、一年分。潤色も恨み言も、一行たりとも書かなかった。退屈なほど乾いた紙面こそが、いちばん強い——それだけは、最初から分かっていたから。
「先月十七日。午後の鐘のあと。西棟講堂にて、古語学の補講。ミレール先生。出席の署名、済み」
読み上げて、わたくしは顔を上げた。顔色を変えたのは、クラウス様のほうが先だった。
「その日その時刻、わたくしは南棟ではなく、西棟の講堂におりました。補講の出席簿に、わたくしの署名がございます。出席簿は学院が保管しているもの。わたくしの手では、書き換えようがございませんわ。——申し添えれば、西棟の講堂と南棟の大階段は、学院の端と端。昼の鐘から午後の講義まで、四半刻もございません。淑女の足で往復して、ついでに人を突き落とせるものかどうか。皆さま、学院にお通いでしたら、よくご存じでしょう?」
くす、と誰かが笑った。笑いは、さざ波のように広がっていく。今度こそはっきりと、わたくしの側で。
「そ……そんな帳面、いくらでも後から書けるだろう!」
「ですから、申し上げましたでしょう。わたくしの帳面だけのお話ではございませんの」
わたくしは扇を、ゆっくりと広間へ向けた。
「その補講には、二十名からの方が出ておられました。そして——今夜この広間に、ご一緒だった方が、いらっしゃいますわね」
三百の視線が、いっせいに泳いだ。誰もが、隣の誰かの顔色を窺っている。わたくしは、その中のひとりへ、まっすぐに目を向けた。かつて、同じ刺繍の輪で針を動かした方。今夜、わたくしと目が合う前に顔を背けた方。
頷いてくださる保証は、どこにもない。記録は嘘をつかない。けれど人の心は、わたくしには、いちばん読めないものだ。この一手だけは、賭けだった。
「ロージエ様。あなたも、あの補講にいらしたはずですわ。——わたくしは、おりましたかしら」
沈黙が、一拍。二拍。ロージエ様の手の中で、扇の房飾りが小さく揺れた。頷けば、聖女の側に睨まれる。頷かなければ、三百人の前で嘘をつくことになる。あの方の内で天秤の軋む音が、ここまで聞こえてくるようだった。
やがてロージエ様は目を伏せたまま、それでも、確かに頷いた。
恨んではいない。あなたはただ、観客席から証言台へ、引きずり出されてしまっただけ。けれど覚えていて。その頷きひとつが、今夜のわたくしを支えるのよ。
どよめきが走る。「あら……」「では、あの日の話は……」——戸惑いのざわめき。嘲りでも侮蔑でもない、初めての色。壁際では、アンナが胸の前で両手を握りしめ、息を呑んでこちらを見つめている。あの子にはきっと、わたくしが何をしているのか、半分も分かっていないだろう。それでいい。今に、分かる。
「ば、馬鹿な……だ、だが、イリスは確かに突き落とされたのだ! 現に六段も——」
「あら。そのこと自体は、疑っておりませんのよ」
クラウス様が、虚を衝かれたように黙った。振り上げた拳の、下ろしどころを見失った顔だった。
「イリス様は、本当にどなたかに押されたのかもしれません。あるいは、おひとりでお転びになったのかも。それは、わたくしには分かりかねます。分からないことを、わたくしは申しません」
わたくしは帳面の頁を、指先で軽く叩いた。
「わたくしに申せるのは、ただひとつ。その日その時刻、その場所に——わたくしは、いなかった。それだけですわ。そして罪を着せるのなら、その『それだけ』が、何よりも重うございますのよ」
誰かが、ほう、と息を吐いた。扇の陰の囁きが、これまでとは違う速さで駆けめぐっていく。神の御名も、聖女の涙も出てこない、日付と署名と頷きだけの応酬。奇妙なものを見る目と、目が離せない目。かまわない。どちらも、証人には変わりないのだから。
「さて」
わたくしは栞を抜き、次の頁へ挟み直した。
「一つ目の罪状は、これで仕舞い。……では次に、毒のお話をいたしましょうか」
「ま、待——」
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