第二話 証拠なき断罪
一拍の、完全な静寂があった。それから、弾けるようにクラウス様が笑い出した。
「さい、ばん……? 裁判、だと?」
笑い声がシャンデリアの光の下で反響し、つられて広間のあちこちから忍び笑いが漏れる。「なんですの、それは」「異国のおまじないか何かかしら」「追い詰められて、とうとう奇矯なことを仰り始めたわ」。扇の陰の囁きは、もう隠す気配すらなかった。
「この国の裁きは、古来、神判をもって行われる」
ひとしきり笑ってから、クラウス様は両腕を広げてみせた。よく通る声。皆に聞かせるための、演説の声だ。
「神の御前で誓いを立て、偽りを申した者は魂を灼かれる。イリスは誓った。泣きながら、神の御名にかけて誓ったのだ! それ以上の何が要る? 貴様の言う『さいばん』とやらは、神より確かだとでも言うのか」
「ええ。そのお話をしに参りましたのよ」
わたくしは扇の先を、軽く胸元に当てた。
「神さまではなく、人の目で確かめられるもの。――証拠のお話を」
ざわめきが、また波打った。けれどその質が、先ほどまでとは少し違う。嘲りの中に、ほんのひとつまみ、好奇の色が混ざっている。人というものは、結局のところ、見世物には勝てないのだ。
嘲るなら、嘲ればいい。声に出して嘲られるのは、静かに遠ざけられるより、よほどましだと知っている。
始まりは、一冊の教本だった。
一年と少し前。学院に編入なさったばかりのイリス様の教本が、泥水に浸けられて中庭で見つかった。わたくしは、その現場を見てすらいない。けれど翌朝には、学院中がこう囁いていた。犯人は、侯爵家のあの方ですって、と。
根拠なんて、どこにもなかった。ただ、イリス様が皆の前でおっしゃったのだ。目に涙を溜め、胸の前で細い指を組んで。「エルヴィラ様を責めないでください。きっと、何かご事情がおありだったのです」と。
庇われた瞬間、わたくしの罪は確定した。
あの方の戦い方を、わたくしは今でも見事だと思っている。イリス様は一度も、わたくしを責めなかった。ただ、廊下ですれ違うたびに一歩だけ下がった。目を伏せ、怯えたように胸元を押さえた。茶会でわたくしが口を開けば、悲しげに睫毛を伏せた。それだけで、充分だった。聖女と呼ばれる方に怯えられる令嬢は、それだけで加害者になる。
仲の良かった令嬢たちは、ひとり、またひとりと離れていった。刺繍の会の席が、わたくしの分だけ用意されなくなった。届いていたはずの招待状が、届かなくなった。誰も、面と向かっては何も言わない。ただ、世界のほうが静かに、わたくしから遠ざかっていった。
聖女に疎まれた女は、魔女にされる。わたくしがこの学院で学んだのは、結局、その一事だったのかもしれない。
クラウス様が変わっていかれたのも、あの頃だ。三年のあいだ、義務のように交わしてきた微笑みが、ある日を境に向けられなくなった。夜会の最初の一曲は、いつの間にかイリス様のものになっていた。問いただすことも、できたのかもしれない。けれど「何を証拠に」と返されたら――あのときのわたくしには、差し出せるものが、まだ何ひとつなかった。
だから、それも書いた。婚約者の心変わりの日付まで帳面につける令嬢など、我ながらどうかしていると思う。思いながら、ペンを置くことは、しなかった。
泣いて訴えることを、考えなかったわけではない。けれど涙で戦えば、それはイリス様の土俵に立つということ。あちらは涙の名手で、わたくしは、お世辞にもそうではない。ならば、わたくしの戦い方をするしかなかった。
形見の手紙の言葉に従って、わたくしは書いた。日付。場所。居合わせた方のお名前。言われたこと、起きたこと。教本が泥水に浸かった日、わたくしがどこで何をして、誰とすれ違い、何を借りたか。使い終えた席次表も、図書室の貸出票の一葉も、捨てずに綴じた。
書くことは、祈りに少し似ていた。誰にも聞いてもらえない訴えを、紙だけは黙って聞いてくれる。そうして帳面が三冊になった夜、彼らはようやく、この舞台の上でわたくしを名指ししてくれた。
感謝すら、している。記録というものは、突きつける相手が現れて、はじめて武器になるのだから。
「――おい、聞いているのか!」
クラウス様の声が、わたくしを現在に引き戻した。苛立たしげに、靴の踵が床を打っている。
「黙り込んで、今さら怖気づいたか? それとも、ようやく謝罪の言葉でも探しはじめ――」
「アンナ」
わたくしは、広間の入り口へ目を向けた。壁際、給仕の列のいちばん端。そこに控えていたわたくしの侍女が、弾かれたように背筋を伸ばす。今夜、控えの間にあれを預けておくように、と命じてあった――ただひとり、わたくしのそばに残ってくれた娘。小さく頷いてみせると、アンナは深く一礼して、駆け出していった。
「……何のつもりだ」
「お待ちになって。すぐに参りますわ」
わたくしは扇を閉じ、口元にだけ笑みを乗せた。
「わたくしの、証人が」
「しょう、にん……?」
クラウス様が眉を寄せる。イリス様の指先が、レースの手袋の上で小さく縮こまった。三百の視線が、誰に命じられるでもなく入り口へ集まっていく。やがて、小さな靴音が急ぎ足で戻ってきた。アンナがその胸に抱えているのは、飾り気のない古い手文庫。お父様の、形見の箱。
その蓋を開け、わたくしは一冊目を取り出した。革の表紙は手擦れて、角が丸くなっている。この一年、毎晩のようにめくり続けた、わたくしの武器。
どよめきが、広間を走った。「帳面……?」「あれが証人だと仰るの?」
「帳面ごときが、何になる」
クラウス様は吐き捨てた。けれどその目は、革の表紙から離れない。人は、自分の知らない武器をいちばん恐れる。
ええ、そうよ。紙は泣かないし、怯えて一歩下がったりもしない。ただ、書かれたことだけを、書かれたとおりに語る。
わたくしは表紙を開き、最初の頁に指を置いた。いちばん古い日付。あの、泥水の朝の日付だ。一年分の誰にも読まれなかった夜が、ここから始まっている。
「それでは、最初の罪状から参りましょうか。――わたくしがイリス様を階段から突き落とした、という一件から」
読んで下さりありがとうございました!
★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!
Youtubeにて作品公開中!
http://www.youtube.com/@mizukara-h2z
ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。




