第一話 断罪、あるいは開廷の宣言
「エルヴィラ・クロスフィールド! 貴様との婚約を、この場をもって破棄する!」
シャンデリアの光が降りそそぐ大広間に、その声は不格好なほど高く響いた。ワルツが途切れ、弓を構えたまま楽団が固まる。グラスを傾けかけた招待客たちが、誰からともなく動きを止め、やがて一斉にこちらを振り返った。三百の視線が、一人の令嬢に集まる。
卒業夜会。学院を巣立つ者たちが、最後の一夜を踊り明かすための席。その中央で、わたくしは婚約者に指を突きつけられていた。
クラウス・フォン・アーベライン。この国でも指折りの大貴族、アーベライン家の嫡男。そして三年前から、わたくしの婚約者であった人。その彼が今、頬を上気させ、まるで舞台の役者のようにわたくしを睨んでいる。
ふと、手首のダンスカードが目に入った。今夜、最初から最後まで、白紙のまま。誰一人として、わたくしを誘いに来なかった。
ああ、と思う。答え合わせなら、とっくに済んでいたのね。
思えば、招待状を受け取ったときから、どこかでこの夜を予感していた気がする。卒業夜会の差配を担うのは、毎年、最も力ある家。今年それを引き受けたのが、ほかならぬアーベライン家であったことを、わたくしは知っていた。舞台を整えられる側が、舞台を選んだ。それだけのこと。
クラウス様の隣には、男爵令嬢のイリス様。淡い桃色のドレスに、レースの手袋。その細い指先で目元を押さえ、肩を小さく震わせている。泣いている――ように、見える。少なくとも、傍目には。少なくとも、声だけは。
「理由を、お聞かせいただけますか」
わたくしは、手にした扇をぱちりと閉じた。動揺は、しない。この日が来ることは、もう十月も前から分かっていたのだから。
「とぼけるな!」
クラウス様は壇上の階段を、苛立たしげに三段降りた。懐から一通の手紙を取り出し、頭上高くに掲げる。
「貴様は、イリスを階段から突き落とした。茶会では、その杯に毒を盛った。あまつさえ、夜ごと脅迫の文を送りつけたのだ! ここに、イリス自筆の嘆願書がある。心優しいこの娘は、震える手でこれをしたため、それでもなお――それでもなお、貴様を庇い続けてきたのだぞ!」
わあ、と広間がどよめいた。
「まあ……恐ろしいこと」「侯爵家のご令嬢が、まさか」「道理で。今夜、どなたもあの方をお誘いにならないと思いましたわ」
扇の陰でかわされる囁きが、さざ波のように広がっていく。背に突き刺さる視線。かつて同じ刺繍の輪で針を動かした令嬢たちまでもが、わたくしと目が合う寸前に、すっと顔を背けた。
味方は、いない。けれど、いなくていい。今夜この広間に要るのは、味方ではない。証人だ。
一年前のわたくしであれば、この場で膝をつき、泣き崩れていたかもしれない。無実を訴え、聞き入れられず、ただ涙だけが頬を伝うのを、なすすべもなく感じていたかもしれない。けれど、今のわたくしは違う。お父様が、教えてくださったから。
「――クラウス様」
わたくしは、もう一度、静かにその名を呼んだ。ざわめきが、わずかに引く。
「証拠は?」
「……は?」
クラウス様の眉が跳ね上がった。間の抜けた声が、一瞬、広間の喧騒を上回って響く。
「ですから、証拠です。わたくしがそれをしたという、確かな証拠は――いったい、どちらに?」
「しょ、証拠だと……?」
彼は手にした手紙を、握りしめるようにして振りかざした。
「これがあるだろう! イリスが、泣きながら訴えたのだ! これ以上の証拠が、どこにある!」
ああ、やはり。わたくしは胸の内で、ひとつ確認する。この国では、それで通ってしまうのだ。聖女と呼ばれる娘が涙を流せば、それが真実になる。神の御前で誓えば、証のひとつもなくとも、人は裁かれ、罰せられる。現に今、わたくしが、そうされようとしている。
わたくしは、彼を見上げた。まっすぐに、瞬きもせずに。そうして、ゆっくりと告げる。
「涙は、証拠ではありませんわ」
クラウス様の顔が、すうっと強張った。
「な、なにを……わけのわからぬことを」
声の張りが、一段落ちる。広間のざわめきの色が変わった。嘲りではない。戸惑いだ。招待客たちは囁き交わしながら、わたくしとクラウス様とを、忙しなく見比べている。
そして、イリス様。目元を押さえていたその指が、ほんの少しだけ止まった。濡れているはずの瞳が、レースの隙間から、確かめるようにこちらを窺う。
見逃さない。その仕草を、わたくしはこの一年、数えきれないほど見てきた。そして、そのたびに書き留めてきた。
お父様が亡くなったのは、わたくしがまだ幼い頃のことだ。世間が「失意のうちに病で逝った、変わり者の侯爵」と呼ぶその人を、わたくしはほとんど覚えていない。覚えているのは、形見の手文庫にたった一通だけ遺されていた、わたくし宛ての手紙。
――騒ぐな。記録せよ。記録は、いつかお前を守る盾になる。
素っ気なくて、けれど誰よりも優しい一文。その意味が本当に分かったのは、ずっと後になってからだった。イリス様が学院に現れ、クラウス様の目の色が変わり、わたくしの周りから一人、また一人と人が消えていった、あの頃。
その日から、わたくしは帳面をつけ始めた。日付。場所。居合わせた方々のお名前。起きたこと。茶会の席次表も、図書室の貸出票の一葉さえも、捨てずに綴じて。
帳面は今夜で、三冊目になる。
「クラウス様。わたくし、先ほどから一度も『身に覚えがない』とは申しておりませんのよ。お気づきになって?」
「……なんだと?」
「『証拠はどちらに』と、お伺いしているだけですわ。罪を裁くのなら、まず証拠を。それが道理というものでしょう? あなたが今なさっているのは断罪ではなく――ただの、言いがかり。その違いを、皆さまの前で、はっきりさせて差し上げると申しているのです」
わたくしは広間を、ゆっくりと見回した。三百の視線。凍りついた楽団。壁際で成り行きを見守る、学院の教師たち。……けっこうなこと。証人は、多ければ多いほどいい。
胸の奥は、静かだった。恐れも、迷いもない。あるのはただ、十月のあいだ研いできた、ひとつの決意だけ。
わたくしは扇を持ち上げ、音を立てて、開いた。
「さあ、皆さま。夜はまだ、これからですわ」
白紙のダンスカードが、手首で小さく揺れる。踊るお相手なら、たった今、見つかったのだから。
「このお粗末な茶番を――この国で最初の『裁判』にして差し上げます」
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