第十話 神さまは、紙が読めない
検分の日の広場は、三日前よりさらに人が多かった。
人垣の後ろでは、また銅貨が握られている。膿むか、癒えるか。……あの日と違うのは、わたくしがもう、観客席にいないことだけだ。外套の下に抱えた紙の束が、歩くたび、鎧のように胸に当たる。
テオが、聖堂の僧に連れられて台座に上った。三日前より、また少し痩せて見えた。司祭が布を解いていく。人垣が伸び上がり、息を呑む。
布の下がどうであったか、仔細は書かない。ただ一つだけ書く。火傷は、膿んでいた。
当然だ。焼けた鉄を、素手で握ったのだから。三日で跡形もなく癒える火傷が、この世のどこにあるというの。……ああ、そういうこと。この裁きは、問いの形をしているだけ。答えは、鉄を握らせた瞬間に、もう決まっている。
「神意は示された。膿み爛れたるは、神罰の証。テオ、そなたの罪は——」
「お待ちくださいまし」
自分の声が、広場に通った。三日前、喉元で止まった声が。
人垣が割れて、視線が集まる。わたくしは台座の前へ進み出て、外套の下から紙の束を取り出した。
「訴えは、検分されねばなりません。わたくしが、検分いたしましたわ」
一枚目。「当日、テオは夜明けから日暮れまで厨房におりました。料理長の証言、日付と刻限つき」。二枚目。「消えた燭台は、下町の質屋にございました。これがその現物」。布を解くと、冬の陽に、三つ枝の銀が鈍く光った。どよめきが走る。三枚目。「質屋の帳簿の写し。持ち込みは十日の夕。……屋敷で燭台が消えたと騒ぎになる、前日の夕刻です。持ち込んだのは、双頭の鷲の留め金をつけた、上物の外套の若い殿方」
双頭の鷲、という言葉に、広場の空気が変わった。下町の人々は、あの紋章を毎日どこかで見ている。ざわめきが、波ではなく渦になる。「前の日だって」「じゃあ、あの子が盗れるわけ……」「双頭の鷲って、それじゃあ——」
「静粛に!」
司祭の声が、渦を叩き切った。
「娘。そなたは何を並べているのか」
「証拠を、並べております」
「神判は、成された」
司祭は、憐れむような目をした。それが、いちばん堪えた。怒りではなく、憐れみ。道理の分からない子どもを見る目。
「神意は、すでに示されたのだ。人の書いた紙切れが神意を覆すというなら、神判そのものが要らぬことになろう。そなたは——神を、試すのか」
……ああ。
この論理は、閉じている。どこから触っても、入り口がない。神判が正しいことの証拠は神判で、神判を疑うことは神を疑うことで、神を疑う者の言葉は聞くに値しない。紙が、届かない。数字も、日付も、届かない。
この国の裁きは、紙が、読めないのだ。
「そこな娘、何者か」
低い声がした。検分に立ち会っていた、身なりのいい壮年の男。ヴォルマー子爵家の家令が、値踏みの目でわたくしを見ていた。名乗るべきか、一瞬だけ迷って、名乗った。身分が、紙に重さを足すのなら。
「クロスフィールド侯爵家の、エルヴィラと申します」
家令の眉が上がり、それから、口の端が歪んだ。
「……ああ。噂の『帳面の君』か。アーベライン家の若君を、衆目の前で紙切れで潰した。お次は当家というわけですかな、訴訟狂いのご令嬢」
嘲笑が、さざめいた。三日前まで、わたくしの紙に感嘆していたはずの人垣の、その同じ口から。……そうか。あの夜の勝利は、ここでは武勇伝ではない。「家を潰す女」の前科なのだ。わたくしの名は、紙の重しになるどころか、紙ごと払い落とす口実になる。
家令は司祭に歩み寄り、二言三言、耳打ちした。渦になりかけたざわめきを、素早く目で測りながら。司祭は頷き、両手を広げた。
「——神は、慈悲深くあらせられる。膿みは浅く、神罰は軽微と出た。テオはヴォルマー家より放逐。これにて、落着とする」
それで、終わりだった。
鞭も、手枷もなし。慈悲深い落着。人垣は、半分安堵し、半分つまらなそうに崩れていく。銅貨が行き交い、誰かが舌打ちをした。癒えるほうに賭けていたらしい。
真実は、どこにも宣されなかった。双頭の鷲の若者のことは、誰も、二度と口にしなかった。わたくしの紙は、無実の証としては読まれず、醜聞の種として値踏みされ、そして「慈悲」という値で、買い取られたのだ。
テオが、台座を降りてきた。布を巻き直された両手に、小さな包みひとつ。十二歳の、住む場所と働く場所を同時に失った子は、わたくしの前で立ち止まって、ぺこりと頭を下げた。
「……あのとき、見ててくれた人だ」
三日前の、目の合った一瞬を、この子は覚えていた。
「お嬢さんの紙、すごかった。前の日に質屋にあったなんて、僕、知らなかった。……でも」
テオは、笑おうとした。笑い方が、少し、大人びすぎていた。
「僕らには、ああいうの、ないから。しょうがないよ」
しょうがない。十二歳が、しょうがないと言う。それがこの国で、帳面を持たずに生まれるということ。
アンナが何か言おうとして、言えずに、自分の外套の前を握った。わたくしは、財布ごと路銀を持たせて、行く先だけ聞いた。母方の伯父が、隣町で鍛冶をしているという。歩いて、二日。……二日ぶんの、わたくしにできるすべて。
帰りの馬車で、アンナがようやく口を開いた。
「お嬢様は……精一杯、なさいました」
「いいえ。負けたのよ、アンナ。勘定は、正しくしなくては」
あの夜のわたくしと、あの子と、何が違ったのか。もう、答えは出ている。わたくしには帳面があって、証人がいて、そして——侯爵家の娘だった。正しかったからではない。運が、良かっただけ。あの広間が、たまたま紙の読める広間だっただけ。
一人を救おうとして、救えなかった。では、二人目は? 三人目は? この国のどこかで、明日も炉に火が入る。一つずつ拾って歩くには、広場は多すぎる。
変えるしかないのだ。裁きの、形そのものを。紙の読めない神さまから、裁きを取り上げて——人の手に、渡すこと。
それが何と呼ばれるものなのか、どうすれば作れるのか、わたくしはまだ、何ひとつ知らないけれど。
その晩、帳面の新しい頁に、わたくしは短く書いた。
テオ。十二歳。無実。……救えず。
頁は、閉じた。けれどこの一行は、閉じない。記録は盾になると、お父様は書いた。今夜、もうひとつ知った。記録は、棘にもなる。抜けないまま、人を歩かせ続ける棘に。
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