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第十一話 忘れなさい、と母は言った

 テオの件から、五日が経った。

 わたくしの帳面は、少し様子が変わった。書き留めるものが、自分の身の回りの出来事では、なくなったのだ。

 神判。この国の、裁き。それがいつ、どこで、誰を、どんなふうに裁いてきたのか。アンナに頼んで下町の噂を拾い、出入りの商人に他の町の話を尋ね、聞けたものを片端から書いていく。東の市では、宣誓合戦のすえに小さな商家がひとつ潰れたという。南の街道筋では、決闘裁判とやらで諍いを裁くらしい。腕の立つ側が、必ず勝つのだそうだ。……それは裁きかしら。それとも、ただの喧嘩の作法かしら。

 アンナは近ごろ、市場から帰ると、まずわたくしの部屋に寄るようになった。「今日の分です」と、聞き集めた話を、指を折りながら並べていく。あの子の耳と記憶は、なかなかのものだ。テオが鍛冶の伯父の許へ無事に発ったことも、アンナが聞き込んできた。……頼み方を覚えたのは、わたくしのほうだけれど。

 五日で、頁は十を超えた。そして、書けば書くほど、奇妙なことに気がついた。

 どの話にも、続きがないのだ。裁かれた人が、その後どうなったのか。裁きが正しかったのかどうか。誰も知らないし、どこにも書かれていない。聖堂に問い合わせる伝手を辿ってもみたけれど、返ってくる言葉は、どこも同じだった。「神判の記録、でございますか? はて、そのようなものは」

 ない、のだ。

 裁きの記録というものが、この国には、ない。神意は誤らないのだから、検分する必要がない。検分しないのだから、書き残す必要もない。テオの名も、あの検分の首尾も、十年後には誰の記憶にも残らない。この国の裁きは——忘れることで、できている。

 ペンが、止まった。帳面の女にとって、これほど恐ろしい発見は、そうはない。

 その午後、わたくしは久しぶりに、父の書斎の扉を開けた。

 埃の匂いがした。この部屋の物は、売られも捨てられもしないかわりに、触れられもしない。積まれた本、綴じ紐の緩んだ書き付けの束、机の上の、中身の乾いたインク壺。わたくしは父の椅子を引いて、腰を下ろしてみた。……大きい。この椅子は、わたくしには、まだ大きい。

 幼い頃のわたくしは、ここへ盗み読みに忍び込んだ。今日は、探しに来た。あの一文の、続きを。

 ……あった。講義録の、ずっと後ろの頁に。

 『裁きは、忘れてはならない。記録されぬ裁きは、裁きと呼べない』

 その行のまわりには、幾筋も線を引いて書き直した跡が残っていた。この一文を、お父様は一度で書いたのではないのだ。何度も削り、何度も置き直して、ようやくこの形に辿り着いた。……お父様。あなたはいったい、何を見て、これをお書きになったの。

 変わり者の学者。失意のうちに病で逝った人。わたくしがそう教えられて育った人の書き付けが、五日かけたわたくしの発見を、とうの昔に、先回りしている。

「——エルヴィラ」

 扉口に、お母様が立っていた。

「またそんな埃だらけの部屋で。何をしているの」

「お父様の講義録を、読んでおりましたの」

 お母様の頬が、かすかに硬くなった。

「およしなさい」

「なぜ、ですの」

「なぜも何も——」お母様は、扇を握り直した。「あなた、ご自分の立場がお分かり? 婚約は破談。あの夜会の騒ぎで、家の名は方々の口の端に上っているのよ。この上、父親譲りの変わり者と思われてどうするの。……せっかく、良いお話も来はじめたところなのに」

「良い、お話」

「東部のホルン伯のご子息よ。あちらは騒ぎを気になさらないそうだから。ありがたいことでしょう」

 破談から、まだひと月も経っていない。……なるほど。家の勘定としては、正しい。値の揺れている娘は、値のつくうちに。お母様は、家を守っていらっしゃるのだ。お父様が亡くなってから今日まで、この方はたったひとりで、クロスフィールドの名を守ってきた。それは、動かない事実。

 そして白状すれば、一瞬、心が揺れた。ホルン伯のご子息がどんな方かは、存じ上げない。けれど、「騒ぎを気にしない」誰かの隣で、帳面もペンも仕舞って、普通の令嬢として生きる。そういう絵が、一瞬だけ、見えなくはなかったのだ。テオの頁も、神判の噂も、書かずに済む生き方。忘れる側の、生き方。

「お母様。ひとつだけ、伺ってもよろしくて」

「なあに」

「お父様のことを、なぜそんなふうに仰いますの。忘れなさい、忘れなさいと。……お父様の、何がいけませんでしたの」

 お母様の扇が、止まった。

「あの人は」

 声が、一段、低くなった。

「家を、顧みなかった。それだけです。……あなたは、あの人に似すぎているわ。お願いだから、エルヴィラ。お父様のことは忘れて、貴族の娘として、生きなさい」

 叱る言葉の、はずだった。けれどそのときのお母様の目は、どうしてかしら、叱る側の目に見えなかった。強いて言うなら、何かに叱られている側の、赦しを乞う側の、目。

 瞬きひとつの間に、それは消えた。お母様は踵を返し、扉が閉まる。廊下を遠ざかる足音は、いつも通り、乱れのひとつもなかった。

 あの目を、どこかで見た気がする。……思い出せない。わたくしの帳面のどの頁にも、書いていないもの。書いていないものは、探せない。人の心というものは、いつだってわたくしの記録の、外側にある。……考えるのは、およしなさい。今は。

 わたくしは、講義録の頁に目を戻した。

 忘れなさい、とお母様は言う。忘れることでできている国の、忘れることで守られてきた家で、忘れなさいと。その勘定の正しさを、わたくしは疑っていない。疑っていないけれど。

 帳面を引き寄せて、テオの頁を開く。四語の棘は、まだそこにあった。これからも、そこにある。机の上には、役目を終えた三冊の盾と、書きかけの新しい一冊が並んでいる。忘れる側の生き方に、こんなに重たい机は、きっと要らないのでしょうね。

 ホルン伯のお話へのお返事は、「考えさせていただきますわ」とだけ、申し上げておいた。……考えは、たぶん、しないけれど。

 ごめんなさい、お母様。

 わたくしはどうやら——覚えている側の人間に、生まれついてしまったようなの。


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