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第十二話 検分されていない訴え

 その夜、わたくしは帳面の、最後の頁を開いた。

 帳面は、四冊目に入っている。役目を終えた三冊の古い盾と、あたらしい一冊。……あたらしい一冊は、盾というより、もう別の何かになりつつあるけれど、その名前はまだ、決めていない。

 あの夜、卒業夜会の帰りの馬車を待ちながら書きつけた、三つの覚え書き。宿題は逃げない、と頁を閉じてから、半月が経っている。逃げなかった宿題と、逃げなかったわたくしが、机の上で向かい合う。

 一つ。言いさされた「俺ひとりの考えでは」。

 二つ。それを摘み取った、白い指。

 三つ。お母様の視線の先にあった、何か。

 ……三つ目には、まだ触れない。触れ方が、分からないから。あれはたぶん、この家の頁だ。開くには、わたくしの指はまだ短すぎる。棚に、戻しておく。逃げないことだけは、もう知っているもの。

 だから今夜は、一つ目と、二つ目。

 俺ひとりの考えでは、ない。——ならば、誰の考えが混ざっていたの。

 三年間、隣で見てきた者として、これだけは言える。クラウス様は、筋書きを書ける方ではない。与えられた台詞を、声高に読み上げるときにいちばん映える方だ。げんにあの夜も、嘆願書を読み上げているあいだは堂々としていて、問い返された途端に崩れた。自分で仕組んだ側なら、ああはならない。問いというものを、あらかじめ想定しているはずだから。

 つまり、あの方の頭に婚約破棄の筋書きを吹き込んだ者がいる。吹き込んで、得をする者が。

 そして、あの白い指。台本にない独白を始めてしまった相方を見る、役者の顔。あの顔を、わたくしは忘れていない。台本にない、ということは、台本が、あったということ。イリス様はあの夜の進行を知っていた。知っていて、崩れそうになった場面で、素早く舵を切った。あれは追い詰められた小娘の手際ではない。仕込まれた役者の、手際だ。

 では、台本を書いたのは、誰。

 わたくしは頁を遡って、あの夜の記録を検分し直した。テオの訴えを検分したのと、同じやり方で。感情を抜いて、事実だけを拾う。

 事実、一つ。夜会の差配を、アーベライン家がわざわざ引き受けた。差配の費えは、小さくない。息子の恋のために大貴族が払うには、些か念が入りすぎている。

 事実、二つ。あの夜の観客席。わたくしの帳面には、居合わせた方々の顔ぶれが書き留めてある。読み返して、引っかかった。学院と縁のなさそうな家の方々が、幾人も混ざっているのだ。卒業する子も孫もいない家。あの夜会に、義理のない家。……それでも、いらしていた。招かれたから。つまり、誰かの名簿に、載っていたから。あの夜の見物人は、集まったのではない。集められたのだ。

 事実、三つ。これは、今朝の話だ。市場帰りのアンナが、いつものように「今日の分」を指折り並べて、その最後に、少しだけ声を低くした。

「それとね、お嬢様。……あの、イリス様のことなんですけど。男爵家は門を閉ざしてるそうです。でも、ご本人はどこかのお屋敷に引き取られたんじゃないかって。出入りの御用聞きが、それらしい馬車を見たとか、見ないとか」

「……引き取られた?」

「変ですよねえ。だって、あんなことのあった方を。あたしなら、言い方は悪いですけど……看板の割れたお店から、わざわざ商品を買うようなものじゃ」

 ……アンナ、あなた、時々おそろしく上手いことを言うのね。芋の目利きだけの子では、ないらしい。

「そうよ。だから、逆さまに考えますの。それでも買う人がいるのなら——その人には、割れた看板ごと買う理由がある、ということ」

 聖女の看板が割れた娘を、わざわざ拾う家がある。拾って、いったい何にお使いになるつもりで?

 アンナが下がったあとも、その問いだけが、部屋の隅に残って消えなかった。

 恋と、嫉妬。あの二人の動機は、それで説明がつく。わたくしはそれを、この目で見た。クラウス様の劣等感は本物だったし、イリス様の欲も本物だった。

 けれど。動機と、舞台装置は、別のもの。

 恋からは、招待客の名簿は出てこない。嫉妬からは、差配の費えは出てこない。あの夜を組んだ金と手際は、あの二人の外側から、来ている。

 あの断罪は、本当に、あの二人だけの仕業だったのかしら。

 書きながら、ペンの先が止まった。おかしなことに気がついたのだ。いちばん検分されていない訴えが、まだひとつ、残っている。

 テオの訴えは、検分した。神判の噂は、集めている。なのに——わたくし自身の事件だけが、半分しか検分されていない。あの夜、わたくしは自分の無実を証した。証して、満足して、頁を閉じた。「では誰が仕組んだのか」という残りの半分を、閉じたまま。

 訴えは、検分されねばならない。

 ……ええ、お父様。仰るとおりですわ。今度の訴人は、わたくし自身。

 これは復讐かしら、と一応、自分に問うてみる。……少し、違う。いいえ、正直に書きましょう。少しは、そうなのかもしれない。わたくしを舞台に上げた誰かの顔を見てやりたい気持ちが、ないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に。確かめないまま前へ進めば、わたくしはいつかまた、同じ場所に上げられる。裁きを変えたいと願う者が、裁きを弄ぶ者の正体を知らないままでは、お話にならないもの。

 帳面の新しい頁に、次の一手を書き出していく。あの夜の招待客の名簿。差配したのはアーベライン家。当主は今ごろ、息子の醜聞の後始末に追われて、家中の出入りが緩んでいる頃合い。出入りの商人、解雇される使用人、後始末の金の流れ。……糸口は、緩んだところから覗くもの。

 書きながら、妙な感覚があった。井戸を覗き込んだときの、あの感じ。石を落としても、水音がなかなか返ってこない。底の見えない、暗さ。この糸の先は、わたくしが思っているよりずっと深いところへ、潜っていく気がする。そして深い井戸に石を落とす者には、覚悟がいるのだ。返ってくるのが、水音とは限らないのだから。

 根拠は、ない。まだ、何ひとつ。

 けれど帳面の女の勘というものは、たいてい、書き溜めた頁の余白から生えてくるものなの。……それでも覗くと、決めたのは、わたくし。


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