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第十三話 二本の糸

 緩んだところから覗く、と書いた糸口は、思ったより早く見つかった。

 このごろのわたくしの日課は、朝に帳面の整理、昼はアンナの持ち帰る話を待つこと。お母様には、刺繍を始めましたと申し上げてある。嘘では、ない。針のかわりにペンを、布のかわりに紙を使っているだけで、根気の要る細工物であることに、変わりはないもの。

 アーベライン家が、使用人に暇を出しはじめたのだ。醜聞の後始末は、人減らしから始まる。誰かに責めを負わせれば、家の体面は「不心得者を処分した」で繕える。あの卒業夜会の差配に関わった者から順に、暇を出されているという。

 その中に、式部係を長く務めた女がいた。名を、ベルタ。夜会の招待状の宛名書きから席次の割り付けまで、差配の紙仕事を一手に担っていた人。……つまり、わたくしがいちばん話を聞きたい人。

「でも、お嬢様。その方、今は口が固いそうです。お屋敷を出るとき、余計なことを喋らないよう、きつく言い含められたって」

「でしょうね。だから、こちらから訪ねたりはしませんわ」

 わたくしが訪ねれば、それだけであの人を危険に晒す。テオの料理長が教えてくれたことだ。人には、守るものがある。職を失ったばかりの人には、なおのこと。……だから、待つ。市場で、井戸端で、アンナの世間話の輪の中に、あの人が自分から入ってくるのを。

 果たして、五日目に、ベルタのほうから口を開いた。三十年勤めた家を、ひと月分の給金で追われた人だ。行き場のない恨みは、聞いてくれる耳を探す。アンナはただ、隣で芋の皮を剥きながら、頷いていただけだという。

「『あたしは名簿のことしか知らない』って、何度もそう言ってたそうです。それで、その名簿なんですけど……」

 アンナは声を落とした。

「招待客の名簿に、あとから足された名前があったそうなんです。それも、旦那様の字じゃない字で。ベルタさん、宛名書きの前に必ず名簿を写すので、覚えてました。二十と幾つか、知らないお家の名前が、まとめて」

 あとから、足された名前。……あの夜の、学院と縁のない見物人たち。集められた観客席の、種明かしの半分。

「それから、お金のこと。夜会の費えが膨らんで、勘定方が青くなってたのに、あるとき急に静かになったって。外から、届いたんだそうです。商会を通して、為替が」

「商会。……どこの」

「ケッセル商会、って言ってました。……あ、それと、もうひとつ変なことが。夜会の三月も前に、旦那様が急に、差配を引き受けるって言い出したそうなんです。あの吝い旦那様が、って、勘定方のあいだで首を捻る者もいたって」

 吝い当主が、身銭を切る差配を、自分から。……いいえ、自分から、ではないのでしょうね。勧めた誰かが、いる。そして費えの穴埋めまで、あらかじめ約束されていたのなら、勘定は合う。

 ケッセル商会。王都の中堅どころ。武具や宝飾ではなく、穀物と為替を扱う、地味な商いの家。派手さはないけれど、貴族の家々の「表に出したくない金」が、よくそこを通ると言われている。

 翌日から、わたくしはその商会を調べた。と言っても、乗り込んだりはしない。商会というものは、船と同じ。積み荷は隠せても、航路は隠せない。どの家に出入りし、どの家の御用を長く務めているか。それは市場の誰もが知っている、隠しようのないこと。

 ケッセル商会が、代替わりの前からいちばん深く食い込んでいる家。番頭が月に幾度も通う家。訊ねるまでもなく、皆が同じ名前を挙げた。

 ライマール伯爵家。

 聞き覚えのある名前だった。社交界の重鎮のお一人。聖堂への寄進で知られる、敬虔なお家柄。大祭の寄進者名簿では、毎年、筆頭に近いところに名が載る。保守派の寄り合いの、常連。……お会いしたことは、ないはず。けれど、この名前を、わたくしはごく最近、どこかで——

 帳面を、遡る。指が、ある頁で止まった。

 あの卒業夜会の、居合わせた方々の顔ぶれ。学院と縁のない家々の中に、その名前は、あった。ライマール伯。あの夜、観客席にいらしたのだ。卒業する子も孫もいない、あの方が。

 それに。聖堂、という言葉が、妙に引っかかる。イリス様の「聖女」の評判は、どこから来たのだったかしら。学院の中だけの渾名にしては、あの看板は立派すぎた。聖女と呼ぶのは、本来、聖堂の側の仕事。そして聖堂にいちばん顔の利く家が、寄進者名簿の筆頭近くに……。

 偶然かしら。……偶然と呼ぶには、まだ早い。一致というものは、二つ目からが証拠。わたくしはそう決めている。

 もう一本の糸が届いたのは、その夜のことだった。

「お嬢様、分かりました! イリス様を乗せてった馬車!」

 アンナが、部屋に飛び込むように入ってきた。頬が赤い。市場の御用聞きの網は、わたくしの想像よりずっと目が細かいらしい。

「御者仲間が覚えてたんです。門にね、紋が入ってたって。樫の葉っぱに、鹿。……樫の葉に鹿の紋って、どこのお家でしょう?」

 紋章録を、開くまでもなかった。ついさっき、帳面に書きつけたばかりの名前。

 樫の葉に鹿は——ライマール伯爵家の、紋章。

 ペンを持つ手が、ゆっくりと下りた。

 夜会の費えを、商会越しに補填した家。あとから名簿に足された、見物人たち。そして、看板の割れた聖女を、わざわざ拾った家。二本の糸を別々に手繰って、辿り着いた先が、同じ扉の前だった。

 ……こういうとき、喜んではいけないのだと思う。糸が結ばれたということは、絵が見えはじめたということ。絵が見えはじめたということは、描いた者の視界に、こちらも入りはじめたということだから。

「アンナ。よくやってくれました。……それでね、明日からは、市場ではいつも通りにしていて。探りものは、しばらくお休み」

「え? でも、これからってときに——」

「だから、よ」

 きょとんとしているアンナに、それ以上は言わなかった。樫の葉に鹿の紋を、この子の口から二度と出させないため。それだけのこと。

 それでも、白状すれば、指先が疼いた。あの夜、診断書の矛盾に気づいたときと同じ。狩りの、はじまりの感覚。

 帳面の新しい頁に、わたくしは名前をひとつ、書いた。

 ライマール伯爵。

 井戸に落とした石の、最初の水音が、返ってきた。……思っていたより、ずっと近くから。


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