第十四話 柔らかい手
最初に消えたのは、ベルタだった。
田舎の親類を頼って王都を離れた、とアンナが聞き込んできた。急な話だったという。三十年勤めて、ひと月分の給金で放り出された人が、遠い田舎まで発てる路銀を、どこで手に入れたのかしら。……手切れ金か、口止め料か。どちらにせよ、あの人はもう、何も話さない。悪くは、思っていない。あの人は、自分の守るものを守っただけ。責める筋合いは、わたくしのどこにもない。
次に閉じたのは、ケッセル商会だった。出入りの商人たちの口が、申し合わせたように重くなった。質屋の親父は帳簿を開いてくれたけれど、商会は開かない。あそこは貴族の金で生きている店だ。帳簿が武器になることも、火種になることも、よく知っている。
糸が、焼かれていく。わたくしが手繰るより、早く。
そして三日前、お母様の部屋に呼ばれた。
「ホルン伯のお話、なかったことになりました」
お母様は、刺繍の手を止めずにそう言った。針の音だけが、規則正しく続いていた。
「先方から、丁重なお詫びと共に。……理由は、お察しなさい」
「お母様。わたくしは——」
「社交界筋から、忠告をいただいたの。クロスフィールドのご令嬢は、このごろ妙な調べものに熱心でいらっしゃるようだ、と。ライマール伯のお名前も、その方の口から出ましたよ。……エルヴィラ。おやめなさい。あの家に、関わるのは」
わたくしは、まだ誰にもその名前を言っていない。帳面と、アンナと、わたくしの他には、誰も知らないはずの名前。それが先方の口から、忠告という形で届く。つまり、ご存じなのだ、あちらは。わたくしが糸を手繰っていることも、どこまで手繰ったかも。
「……考えますわ、お母様」
とだけ、申し上げて部屋を辞した。考えは、する。手を止めるかどうかは、それとは別の話だけれど。
部屋に戻って、わたくしは帳面に短く書いた。縁談、消える。糸、焼かれる。敵は、こちらの手札を読んでいる。
書いてから、ペンが少しのあいだ、止まった。……縁談は、いい。惜しくもない。けれど、あれはわたくしの傷ではなく、家の傷だ。お母様がひとりで守ってきた家の外堀が、わたくしの探りもののせいで、埋められていく。この勘定を、わたくしはどう払えばいいのだろう。
答えの出ないまま、迎えた茶会だった。
メルロー子爵夫人の園遊の茶会。中立のお家からの、悪意のない招待。断る理由がない。……そして、逃げれば認めたことになる。わたくしは地味な若草色のドレスを選んで、出かけた。
庭園の薔薇のアーチをくぐったところで、その方は、当然のようにそこにいらした。
「これはこれは。クロスフィールドのご令嬢」
恰幅のいい、柔和な紳士。銀の混じった髭を丁寧に整え、聖句の刻まれた指輪を嵌めている。声は温かく、物腰は水のように滑らかで——目だけが、笑っていなかった。
「ライマールと申します。お噂は、かねがね」
樫の葉に鹿の紋が、胸元の留め具で鈍く光る。ご本人から、いらしたのね。値踏みは、あちらが先に済ませるおつもりらしい。
「まあ。噂ばかりが先に歩いて、困っておりますの」
「なんの。先の夜会のお手並み、この老骨も拝見しておりましたよ。お見事なものだ。あの聖女殿も、お気の毒なことをなさった。……ああした小娘は、使い途を誤ると、ああなる」
使い途。人に、使い途と仰るの。しかも、拾い主の口で。わたくしは扇の内で、その言い回しを一字一句、書き留めた。
「ときに」
伯は、茶器を手に取って、ゆっくりと一口含んだ。
「あなたは、お父上によく似ていらっしゃる」
……今、何と仰ったの。
「亡きお父上も、熱心に、ものをお調べになる方だった。書物と、記録がお好きでね。……ですがご令嬢。好奇心と申すものは、聖句にもございますとおり、楽園を追われる元なのですよ。知恵の実は、美味しいうちに、齧るのをおやめになることです」
微笑みは、最後まで崩れなかった。恫喝というものが、こんなに柔らかい手触りをしているとは、知らなかった。
お父様を、ご存じなの。学者の、変わり者の、社交界とは縁の薄かったはずのお父様を。保守派の重鎮が、いったい、なぜ。
……いけない。今この場で、その糸に触れては。わたくしは違和感を胸の内の帳面に書きつけて、頁を閉じた。宿題は、逃げない。今は、目の前の柔らかい手を。
「ご忠告、痛み入りますわ。ですけれど伯爵さま、わたくしの調べものは、刺繍と同じ。ただの、令嬢の手慰みですのよ」
「それは重畳。手慰みは、身を滅ぼしませんからな。……時に、お聞きしましたぞ。東部の縁談が、流れたそうで。お気の毒に。良い話は、逃すと戻らぬものです」
――今。
今の一言を、わたくしは待っていた気がする。
ホルン伯の縁談が流れたのは、三日前。お母様は誰にも話していない。先方も、体裁の悪い破談を言い触らしはしない。家の外に、まだ出ていない話。それを、この方は、慰みの世間話の顔をして、口になさった。
知っているはずのないことを知っている者は、知っている理由を持っている。……縁談を流させたのが、ご自分だから。
「まあ……お耳の早いこと」
わたくしは扇を開いて、口元を隠した。笑みが、抑えきれなかったからだ。
「ほんとうに、なんでもご存じですのね、伯爵さまは」
柔らかい手の持ち主は、鷹揚に笑って、次の客のほうへ流れていった。庭園の薔薇の中を、敬虔な紳士の背中が遠ざかっていく。薔薇の香りの中に、聖句と脅しの残り香だけが漂っていた。
帰りの馬車で、わたくしは今日の収穫を数えた。ひとつ、敵の顔。ふたつ、敵の手口。脅しは柔らかく、聖句の衣を着せて。みっつ、敵の口が滑らせた、縁談の件。……上々ではなくて? 糸を三本焼かれて、代わりに三つ。悪くない取引だと思うことにする。
伯爵さまの、唯一の過ちはね。わたくしを黙らせに、ご自分でいらしたことよ。顔のない圧力は、怖い。けれど顔の見えた圧力は、もう、ただの証拠の候補ですもの。
あなたはたった今、ご自分の指の跡を、わたくしの帳面に押していかれましたのよ。
糸は焼かれた。商会は閉じた。縁談は消えた。……けれど、今の一言、確かに頂きましたわ。
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