第十五話 泣かない女たち
手札を、机に並べてみる。
ベルタの話は、本人が去った今、ただの伝聞。商会の線は、閉じた。馬車の紋の目撃は、御者仲間の酒の席の記憶。茶会での縁談の一言は、わたくしの帳面の中にしかない。……紙が、弱い。あの夜のわたくしを支えた紙の束が、今度の相手には、届かない。あちらは記録を残さない側の、玄人なのだ。
紙が駄目なら、人。けれど人は、それぞれの守るものの内側に籠っている。ベルタも、商会も、料理長も。守るもののある人を、引きずり出すことはできない。アンナも探りものからは下ろしてある。つまり今、わたくしの手足は、わたくしだけ。
……では、守るものが、もう飼い主の機嫌しか残っていない人は?
わたくしは帳面の頁を繰って、あの名前の上で指を止めた。イリス様。看板の割れた聖女。拾われた道具。「使い途を誤ると、ああなる」と、あの伯爵に茶飲み話で言われる娘。
あの方の涙は、読めない。微笑みも、読めない。けれど、あの乾いた目——損得を弾き直す商人の目なら、わたくしにも読める。あれは、証拠と同じ言葉を話すから。
だから、取引をする。
聖堂に通いはじめて、四日目の朝だった。
供のアンナには、祈りに行くのだとだけ言ってある。「お嬢様が、急に信心深く……」と、あの子は雨の前の空を見る顔をしていたけれど、詮索はしないでいてくれた。イリス様は、週に二度、聖堂の奉仕に出ていらっしゃる。割れた看板を、磨き直している最中なのだ。誰の差し金かは、いまさら訊くまでもない。わたくしはその聖堂の隅の席で、ただ祈祷書を開いて座っていた。訪ねはしない。呼び止めもしない。扉を開けて、待つだけ。ベルタのときと、同じやり方。出口を探している人は、開いた扉の風に、自分で気づくものだから。
四日目。祈祷を終えた人々が去り、蝋燭の匂いだけが残った堂内で、衣擦れの音が近づいてきた。
「……あなた、わたしを笑いに来たの」
素の声だった。あの夜、一瞬だけ見えた素顔が、今日は隠されもせずにそこにある。化粧の薄い頬。乾いた目。祭壇の聖女ではなく、勘定台の前の女の顔。
「いいえ。取引に参りましたの」
わたくしは祈祷書を閉じて、隣の席を目で示した。イリス様は座らなかった。立ったまま、腕を組んで、わたくしを見下ろしている。
「取引? あなたとわたしに、何の取引があるっていうの。わたしから何もかも取り上げた人が」
「取り上げてなど、おりませんわ。あなたが積んだ札が、崩れただけ。……それより、イリス様。ひとつ、お伝えしたいことがあって参りましたの。先日、さる茶会で、あなたの飼い主とお話しする機会がございました」
組んだ腕の、指先が動いた。
「あの方、あなたのことを、こう仰いましたのよ。——『ああした小娘は、使い途を誤ると、ああなる』」
沈黙が、蝋燭の炎のように揺れた。
「……それが、どうしたの」
「使い途、ですって。人に向かって。しかも、憐れみの顔で。……イリス様、あなたはお聡い方。道具の行く末くらい、とうにご存じでしょう。磨き直された聖女は、次の場でもう一度使われて——今度こそ、使い潰される。あの断罪の仕掛けを知っている者を、あの家が生かしておく理由は、用が済めば、ひとつも残らない」
「……脅しに来たの?」
「勘定のお話をしに、参りましたの。あなたがいちばんお得意な言葉で」
イリス様は、長いことわたくしを見ていた。それから、ふ、と息だけで笑った。
「あなた、ほんとうに、嫌な女ね」
「ええ。よく言われますわ、最近」
「……男爵家の四女がね、どうやったらまともな席に座れるか、あなたに分かる? 侯爵家に生まれて、席も帳面も最初から持ってた人に」
声は、湿らなかった。恨み言というより、商いの原価の説明のような口ぶりだった。
「持ち物は顔と涙だけ。だから使ったの。同情してほしいわけじゃないわ。……得を、したかっただけよ。しくじったけど」
「事情は伺いました。罪の言い訳には、なりませんけれど」
「でしょうね。あなたはそういう人だもの」
「わたしが何か話したところで、誰が信じるの。落ちた女の言葉よ。あなたがいちばんよく知っているでしょう。涙も言葉も、証拠にはならないって」
「ですから、言葉ではなく、紙をいただきたいの」
わたくしは、まっすぐにあの乾いた目を見た。
「イリス様。あなたのような聡い方が、身ひとつで他人の屋敷に飼われに行くはずが、ありませんもの。指示の文でも、金子の受け取りでも、何でもよろしいわ。……保険を、お持ちでしょう?」
乾いた目が、すっと細くなった。図星の顔というものを、わたくしはあの断罪の夜からずいぶん学んだけれど、これほど綺麗な図星は初めて見る。
「……仮に、あったとして。あなたに渡して、わたしに何の得があるの。あなたはわたしを憎んでいるでしょう。罠かもしれない」
「憎んで、おりますわよ」
隠しても仕方のないことは、隠さない。
「あなたを赦した覚えは、一度もございません。これは救いの手ではなく、ただの取引。……けれどイリス様、わたくしとあなたの違いを、ひとつだけ申し上げておくわね。わたくしは、嘘は使いませんの。武器はいつも、本当のことだけ。あの夜、あなたはそれを、どなたよりも間近でご覧になったはずよ」
蝋燭が、じ、と小さく鳴いた。イリス様は祭壇の方を見て、それからわたくしを見て、最後に、自分の組んだ指先を見た。弾いている。あの家の機嫌と、わたくしの本当とを、細い指の先で。
「……考えさせて」
答えの代わりに、あの方は踵を返した。堂の出口へ向かう足音が、二歩、三歩——ふいに、止まる。
「水曜。ライマールのお屋敷で、夜会があるわ。保守派の寄り合い。……わたしの、お披露目ですって」
振り向かないまま、それだけを言って、イリス様は光の中へ出ていった。
お披露目。あの家が客を集めて、磨き直した聖女を並べ直す夜。
……舞台の場所と日取りを、ご本人のほうから教えていただけるなんて。
帰り道、蝋燭の匂いの残る外套の前を合わせながら、ふと思った。あの方は、最後まで泣かなかった。わたくしも。涙の要らない話し合いというものが、この世でいちばん速くて、いちばん正直なのかもしれないわね。
天秤は、もう傾いている。あとは、皿に載せる紙を待つだけ。
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