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第十六話 忘れさせる側

 招待状は、樫の葉に鹿の封蝋で届いた。

 水曜の夜会。文面は慇懃で、趣旨はこうだ。先の騒動は若い方々の行き違い、聖女殿は深く悔いておられる、ついては和解の宴に、ぜひクロスフィールドのご令嬢を、と。

 ……なるほど。わたくしを壇上に上げて、公衆の面前で「許す側」を演じさせ、あの一件ごと美談に埋める。探りものも、これで蓋。飼い主の考えそうなことだ。罠と分かっている招待状ほど、安全な乗り物はないのだけれど。

 そして火曜の夜、小さな包みが届いた。差出人の名はない。中身は、二つ折りの古い文が三通と、金子の受領の控えが一枚。それから、走り書きがひとひら。

 ――決めたわ。

 文の封蝋は、樫の葉に鹿。筆跡は、流麗な家宰のもの。日付は、一年と三月前。イリス様が学院に編入なさる、そのひと月前。

 天秤の皿に、紙が載った音がした。

   *

 ライマール邸の広間は、保守派の重鎮たちで満ちていた。

 わたくしが入場すると、ざわめきが品定めの色を帯びて寄せてくる。帳面の君。訴訟狂いの令嬢。値踏みと、好奇と、薄い敵意。あの卒業夜会とは違う。ここは初めから、あちらの陣地だ。膝の後ろが、正直に強張っている。あの夜の広間には三百人の証人がいた。この広間にいるのは、三十人の、いいえ。よしましょう、数えるのは。数える前に、上がるだけ。

 壇上には、磨き直されたイリス様。淡い青のドレスで、伏し目がちに、悔いる聖女の役を完璧に着ている。その隣で、ライマール伯が両腕を広げた。

「皆さま。今宵は、若い方々の和解の宴。過ちは悔いられ、赦しは施される。それが神の御心というもの——さあ、ご令嬢。こちらへ」

 わたくしは壇へ上がり、差し出された伯の手の前で、足を止めた。

「和解の前に、ひとつだけ。……検分を、させていただきたいの」

「……ほう?」

「赦すためには、何を赦すのかを、先に確かめませんと。イリス様お一人の過ちなのか。それとも」

 外套の下から、紙を取り出す。

「一年と三月前、イリス様の学院への編入を手配し、金子を渡し、アーベライン家のご子息に近づくよう指図した、どなたかの過ちも含めてなのか」

 広間が、静まった。伯の微笑みが、微笑みの形のまま、質を変えた。

「……何かと思えば。出所も知れぬ紙切れを」

「封蝋は、樫の葉に鹿。筆跡は、ご家宰のもの。……ご家宰のお手は、季節のご音物の添え状で、この広間のどなたもが見慣れていらっしゃるはずですけれど。お回ししても、よろしくてよ」

 幾人かの視線が、無意識に泳いだ。見慣れている、その通りだからだ。

「出所なら、ここに」

 イリス様が、口を開いた。悔いる聖女の声ではなく、乾いた、素の声で。

「その文をわたしに下さったのは、ライマール様のご家宰です。金子も、編入の口利きも。……ぜんぶ、この家から出ました」

 お披露目の主役が、飼い主を刺した。広間のざわめきが、一拍遅れて膨れ上がる。伯の首が、ゆっくりとイリス様へ回った。

「……恩を仇で返すか、小娘」

「恩? 使い途を誤ると、ああなる——そう仰ったんでしょう、この方に。道具にも、耳はありますのよ」

「讒言だ! 落ちた女の言うことを、誰が」

「信じていただく必要は、ございませんの」

 わたくしは、伯にではなく、広間へ向き直った。品定めの視線たちへ、まっすぐに。

「皆さまに、信じていただきたいことなど何も。ただ、思い出していただきたいだけ。……あの卒業夜会の招待名簿に、この広間の幾人ものお名前が、あとから書き足されておりました。学院に、何のご縁もない方々のお名前が」

 幾つかの扇が、止まった。

「あの夜、皆さまは観客でいらした。それはよろしいの。観客に罪はございませんもの——名簿が、ただの名簿であるうちは。けれど、あの断罪劇を仕組んだ方の名が公になれば、あの名簿は、その日から共犯者の名簿と呼ばれますのよ。……皆さまのお名前が載った紙の呼び名が変わる前に、なさるべきことがおありなのではなくて?」

 沈黙は、あの卒業夜会のそれとは違う音がした。義憤でも、驚きでもない。算盤の音。三十人の重鎮たちが、いっせいに損得を弾き直す、乾いた音。

 やがて、白髪の老侯が杯を置いた。寄り合いの、最古参格。

「……ライマール卿。今宵は、これまでとしよう。追って、寄り合いとして話を伺う」

 それだけだった。判決文も、断罪の宣言もない。この方々の裁きは、いつだって短いのだ。長い裁きは、塀の外に聞こえてしまうから。ただ、潮が引くように人々が伯から離れていく。衣擦れの音。あの夜と同じ音で、まるで違う理由。あちらは驚きが人を退かせた。こちらは、計算が退かせている。

 真実が勝ったのでは、ない。損得が、伯を切っただけ。……ええ、分かっておりますとも。それでも今夜は、それでいい。切られてくださるなら。

 伯が、わたくしの前で足を止めた。柔和な仮面は、もう着けていなかった。

「小娘が。……何かを成した気でおるのか」

 声は低く、憐れむようですらあった。

「わしを切らせて、それで? おまえは、何も分かっておらん。この国でな、覚えている側は、いつも負けるのだ。……誰が忘れさせる側か、知りもせんで」

 忘れさせる、側。

 問い返す前に、伯は背を向けた。従僕も付けずに広間を出ていく背中は、敗者のそれというより——切られることを、あらかじめ知っていた者の背中に見えた。

   *

 帰り際、控えの間の廊下で、イリス様と行き合った。旅装だった。

「南の港町に、伝手があるの。……これでわたしたち、貸し借りなしよ」

「ええ。二度とお会いしないことを、祈っておりますわ」

「あら、奇遇。わたしも」

 泣かない女は、泣かないまま、夜の中へ出ていった。

 屋敷に戻ると、アンナが起きて待っていた。何も訊かずに、白湯を出してくれる。湯気の向こうで、眠たげに目を擦りながら。この子の、何も訊かない加減というものが、近ごろ、妙にありがたい。

 寝る前に、わたくしは帳面を開いた。ライマール伯、失脚。イリス様、退場。第二の断罪、成る。……そこまで書いて、ペンが止まる。

 忘れさせる側。あの言い方は、おひとりの仕事の言い方では、なかった。


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