第十七話 配られた噂
ライマール伯の失脚から、十日が経った。
何も、起きなかった。それが、いちばん嫌な報せだった。切られた側の恨み言も、寄り合いからの呼び出しも、何ひとつ届かない。水面が静かなのは、流れが止まったからではない。深くなったからだ。
だからわたくしは、この十日を備えに使った。帳面の要所を写して二部つくり、一部は自分の部屋の外に預けた。預け先は、あの質屋の親父。「妙なお嬢さんだ」と、また笑われたけれど、断られはしなかった。紙を信じる者は、紙の置き場所にも、気を配るものなの。
最初の変化は、手紙の数だった。
朝の銀盆から、招待状が消えた。祝辞も、社交の誘いも、見世物めあての誘いすらも。あの断罪の後でさえ、好奇心だけは届いていたのに。今は、それもない。好奇心より強い何かが、皆さまの筆を止めている。
次に、領地から報せが来た。今年の穀物の買い付けを、長年の商会が見送ると言ってきたそうだ。理由は「相場の都合」。同じ週に、別の二軒からも同じ文面の断りが届いた。相場の都合、という同じ五文字で。
そして、噂。
アンナが市場で耳にする話の様子が、変わったという。
「変なんです、お嬢様。皆さん、同じことを言うんです。それも……同じ言い方で」
曰く、クロスフィールドの娘は家潰しだ。アーベラインを潰し、ライマールを潰し、次はどの家を潰す気か。関われば潰される。曰く——あの血は、昔からああなのだ。
わたくしは、アンナの覚えてきた言い回しを、一つずつ帳面に書き取った。パン屋で聞いた話。井戸端で聞いた話。洗濯場で聞いた話。並べてみると、はっきり分かる。言い回しが、揺れていないのだ。
噂は、生き物だ。口から口へ渡るうちに、尾鰭がつき、頭が取れ、別の話と混ざる。自然に育った噂は、必ず揺れる。けれどこの噂は、どこで聞いても同じ骨格をしている。同じ順番で、同じ言葉が出てくる。
……これは、育った噂ではない。配られた噂だ。文面を書いた者がいて、配って回る口がある。
効き目は、もう出はじめている。アンナがいつもの八百屋で、釣り銭を台の上に置かれたそうだ。手渡しではなく。おかみさんは最後まで、目を合わせてくれなかったという。それから今朝、家令が廊下で言い淀んだ。お屋敷の若い者が、二人ほど、暇を願い出ていると。理由は、聞かなかった。聞けば、引き止めたくなってしまうから。
それにしても、と、書き取った言い回しの一つに、わたくしはペンを止めた。
あの血は、昔からああなのだ。
昔から? お父様は、社交界と縁の薄い、書斎の人だったはず。潰した家など、あるはずもない。なのに「昔から」と、噂の文面は言う。まるで、クロスフィールドの名に、わたくしの知らない前科があるかのように。
……この違和感も、帳面に書いて、頁を閉じる。宿題の棚が、また少し重くなった。
夕刻、お母様の部屋に呼ばれた。
机の上には、帳簿が開かれていた。几帳面な字に、赤い線が幾筋も引かれている。……これが、お母様の帳面なのだ、と思った。お母様は挨拶も抜きに、指先でその頁を叩いた。
「穀物の買い付けが三軒、機屋が一軒、それから秋の夜会の招待の返礼が、十二家ぶん、来なくなりました。……エルヴィラ。この意味が、分かりますね」
「はい。数字は、読めますもの」
「でしたら、これ以上は申しません。……いいえ、一つだけ。あなたが正しいかどうかの話を、わたくしは一度もしていないの。家が保つかどうかの話をしているのよ」
その言い方に、わたくしは少しだけ、驚いた。お母様も、勘定の人なのだ。わたくしと同じ言葉で、ものを考える方。ただ、算盤に載せているものが違う。わたくしは真実を載せ、お母様は家を載せる。同じ言語の、違う帳簿。……この方と、いつか同じ頁を見られる日は、来るのかしら。
部屋を辞するとき、お母様は何も言わなかった。引き止めも、突き放しも、しないまま。その沈黙が、どちらへ傾いていくのかを、わたくしはまだ知らない。
夜、アンナが部屋に来た。頬を強張らせて、声をひそめて。
「お嬢様。あたし、明日から市場でもう一度、調べて——」
「いいえ。市場では、いつも通りに。前にも言いましたでしょう」
「でも! でもお嬢様、このままじゃ、お嬢様がおひとりで……」
アンナの声が、途中で崩れた。
「わたし、いつも、そうなんです。あの夜会のときだって、帳面を運ぶことしか……お嬢様がひとりで戦ってるのに、隣で、見てることしか……。せめて今度こそ、何か……」
「アンナ」
名前を呼ぶと、あの子は口を結んだ。濡れかけた目のまま、まっすぐにわたくしを見ている。……この子の「何か」を、受け取る方法を、わたくしは知らない。知らないから、いつもの言葉で蓋をする。
「ひとりが、いちばん軽いのよ」
言ってから、その言葉の軽さに、自分で少し黙った。軽い。本当に? 荷を分ける相手がいないことを、軽いと呼び替えているだけでは? ……いいえ。考えない。今は、この子を巻き込まないことのほうが先。噂の的の隣に立つ者は、次の的にされる。ベルタで学んだ理屈だ。
アンナは何か言いかけて、言えないまま、唇を結んで下がっていった。扉の閉まる音が、いつもより、少しだけ大きく聞こえた。
寝る前に、窓辺の帳面を取ろうとして、ふと、門の方に目が行った。
通りの向かい、街灯の届かない暗がりに、男がひとり、立っていた。外套の襟を立てて、ただ、立っている。物売りの時刻ではない。訪いの気配もない。わたくしが窓辺に立ったのに気づいたのか、男はゆっくりと踵を返し、夜の中へ歩き去った。
帳面に、書く。何日、夜。門外に男、一名。外套、灰色。用向き、不明。
書き終えてから、わたくしは窓の鍵を、指で確かめた。生まれてこのかた、自分の手でしたことのない仕草だった。鍵は、かかっていた。当たり前のことを確かめた指が、当たり前に離れるまで、少しだけ、かかった。
顔のない圧力は、怖い。いつかの馬車の中で、わたくしは確かにそう申し上げた。顔の見えた圧力は証拠の候補になる、顔のないものは怖い、と。
……ええ。申し上げた通りのものが、いま、来ている。
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