第十八話 揺れない言葉
門の外の男は、二人に増えていた。
交代で立っているらしい、とアンナが青い顔で報告に来たのを、途中で止めた。数えなくていい、近づかなくていい、と。わたくしの帳面には、もう三晩ぶんの記録がある。灰色の外套。時刻。立ち位置。それで足りる。足りて、それをどこに出すのかは、考えないことにしている。
昼には、寄り合い筋の使者と名乗る老人が、お母様を訪ねてきた。半刻ほどで帰っていった。帰り際、玄関先で一度だけ、屋敷を見上げていったという。何の話だったか、お母様は仰らなかった。ただその晩から、廊下ですれ違うお母様の目が、わたくしの顔の少し横を見るようになった。
領地からは、代官の悲鳴のような文が届いた。買い手の停止が四軒目、冬までに納屋の穀物を捌けなければ、来年の作付けに障る。使用人はさらに二人減った。夜の廊下は灯りが半分になり、広い食堂に湯気の立つ皿が並ぶまで、以前より長くかかるようになった。アンナが二人ぶんの仕事を黙って抱えているのを、わたくしは知っている。知っていて、やめなさいと言えない。人手が、本当に足りないのだから。家というものは、こんなふうに、音もなく水位が下がっていくのね。
この三日、お母様とは食卓で一度も目が合っていなかった。だから夕刻、部屋に呼ばれたとき、話の中身は聞く前から、半分わかっていた気がする。
帳簿は、閉じられていた。それが、いちばん嫌な兆しだった。数字の話ではないということだから。
「エルヴィラ。領地へ、お行きなさい」
前置きは、なかった。
「社交の場からは、当面退くこと。調べものと呼んでいるあれも、一切やめること。王都へは、こちらが良いと言うまで戻らないこと。……そうすれば、家への風当たりは収まると、そういうお話です」
「……お待ちになって。社交から退くのは、構いませんわ。領地へ行くのも。けれど、調べものだけは——」
「それが、いちばんの条件だそうです」
遮る声は、静かだった。
だそうです。……今、そう仰った。
「……どなたと、そういうお話に?」
「あなたが知る必要はありません」
お母様は、窓の方を向いたまま仰った。夕陽で、表情は見えない。
「三日のうちに、支度をなさい。馬車は手配してあります」
三日。……ずいぶんと、手回しのいいこと。わたくしが頷く前から、馬車の手配まで済んでいる。つまりこれは相談ではなく、通告。そして通告の主は、たぶん、お母様ではない。
「ひとつだけ、伺いますわ。これは、わたくしを守るお話ですの。それとも、家を守るお話ですの」
お母様の肩が、ほんのわずかに動いた。
「……同じことです」
「同じでは、ありませんわ」
「同じことです。この家には、あなたの他にも、守らねばならないものがあるの。使用人が四十人。領地の民が、その何十倍。あなたの正しさは、その人たちの冬を暖めてはくれません」
反論は、しなかった。できなかったのではない。……その勘定が、正しかったからだ。
拒んだ場合を、いつもの手順で検分してみる。風は止まず、買い手は五軒目、六軒目と消える。冬、領地の民の蓄えが痩せる。使用人はさらに減り、残った者が的にされ、アンナの名が、いつか噂の文面に載る。対して、わたくしが退いた場合。風は止む。それだけで、全部の数字が生き返る。
ただし、条件の二つ目が、すべてを持っていく。調べを、一切やめること。テオの頁も、ライマールの糸も、忘れさせる側の正体も、宿題の棚ごと鍵をかけろという意味だ。あちらは、よく分かっていらっしゃる。わたくしから取り上げるべきものが、何であるかを。
それでも。
わたくしが退けば、風は止む。家は保ち、アンナは的から外れ、代官の文は悲鳴でなくなる。わたくしひとりが頁を閉じるだけで、それだけの帳尻が合う。ひとりが、いちばん軽い。いつかアンナに言った言葉が、そっくりそのまま、わたくし自身の首に掛かった。
「……承知いたしました。三日のうちに、発ちます」
言えた自分に、少しだけ驚いた。お母様は振り向かず、小さく頷いた。言い終えたはずのその背中で、呼吸がひとつ、浅く止まっているのが分かった。荷を下ろした人の息では、なかった。まだ何かを、持ち上げたままの人の息。
部屋に戻って、アンナに告げた。
「領地へ行くことになったわ。あなたは、王都のお屋敷に残りなさい」
「――――」
アンナは、何も言わなかった。胸に抱えた盆の縁を掴む指が、白くなっていた。目は、最後までわたくしと合わなかった。何か言えば決壊すると分かっている顔で、深く、深く一礼して、下がっていった。閉まった扉の向こうで、足音が、途中で一度、止まった。長い間があって、また歩き出した。
その夜、わたくしは荷造りを始めた。ドレスより先に、手が伸びたのは帳面だった。三冊の古い帳面と、書きかけの四冊目。どの鞄に入れるかを迷ってから、迷っている自分に気づく。……調べは、やめるのでしょう。やめる者は、帳面の鞄など選ばない。選んでいる時点で、わたくしの手は、頭の決めたことを信じていないのだ。
それから、机に向かって帳面を開いた。
今日のことを、いつものように書く。門外の男、二名。寄り合い筋の使者、来訪。領地行きの通告。期限、三日。……それから、お母様の言葉を、覚えているかぎり正確に書き取った。記録は感情を挟まない。挟まないから、時々、感情より先に真実へ着く。
社交の場からは、当面退くこと。調べものと呼んでいるあれも、一切やめること。王都へは、こちらが良いと言うまで戻らないこと。
書き取った三つの条件を、わたくしは、しばらく眺めた。
……揺れて、いない。
お母様の言葉は、いつも、もっと揺れる。勘定の話に説教が混ざり、説教に溜め息が混ざる。それがあの方の話し方だ。けれど今日のあの三つは、揺れなかった。同じ長さで、同じ形で、条文のように並んでいた。まるで、どこかで一度、紙に書かれた言葉のように。
配られた噂と、同じ骨格をしている。誰かが書いて、お母様に持たせた言葉。
ペンを持つ手が、ゆっくりと冷たい帳面の上に下りた。
お母様。あなたは今日、誰の言葉で、わたくしに仰ったの。
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