第十九話 盾は、燃える
出立の前日、わたくしは下町へ下りた。
預けたものを、引き取りに行くためだった。あの質屋に置いた、帳面の写し。領地へ持っていくべきか、置いていくべきか、道々まだ迷っていた。迷えるうちは、まだ余裕があったのだと、今なら分かる。
角を曲がって、足が止まった。
店の前に、人だかりができていた。焦げた匂いが、通りの半ばまで届いている。狭い間口の上の梁が黒く煤け、外に運び出された品物が、濡れた筵の上に並べられていた。
小火だ、と誰かが言っていた。夜半に。奥の物置から。
親父は、その筵の脇に腰を下ろしていた。煤で汚れた顔で、割れた壺の破片を、意味もなく揃えている。わたくしに気づくと、目だけを上げた。
「……お嬢さん」
「お怪我は」
「ねえよ」
ないよ、と言った声が、掠れていた。
「あんたの預かりもんはな。奥の棚だ。……焼けちまった」
灰。ひと束ぶんの紙が、灰。
「親父さん。誰か、この店に」
「知らねえ」
遮る言い方だった。それきり、親父はわたくしの顔を見なかった。
「知らねえよ、なんにも。……悪いが、店は畳む。倅の嫁の里が、南にあるんでな」
破片を揃える手つきは、丁寧だった。丁寧すぎた。この人は、火の出た理由を知っている。知っていて、生きるために、知らないと言っている。それを責める権利は、わたくしにはひとつもない。あるのは、勘定だけだ。
わたくしが帳面をこの店に置いたから、この店は焼けた。
「……申し訳ございません」
言葉は、灰ほどの重さもなかった。親父は答えなかった。ただ、しゃがんだまま小さく手を振って、あっちへお行きなさい、という仕草をした。
*
人通りの少ない裏道に入ったのは、迂闊だったと思う。往来を歩けば、顔を見られる。今のわたくしは、そういうことを気にする女になっていた。
二人の男が、前と後ろから来た。
灰色の外套。門の外で見た背格好と、同じ。声はなく、足音だけが近づいて、通り過ぎるかと思った瞬間に、片方の手がわたくしの手首を掴んだ。強く握られたのではない。ただ、動きを止めるためだけの力。それが、かえって恐ろしかった。
腕に抱えていた帳面が、地面に落ちた。前の日の雨が乾ききっていない、黒い土の上に。
「三日後の馬車に」
男の口が、わたくしの耳のそばで動いた。
「必ず、お乗りなさい」
外套の合わせ目から、革の鞘の縁が見えた。抜かれはしなかった。抜く必要が、なかったからだ。
通りの向こうから、荷車の車輪の音と、御者の呼ばわる声が近づいてきた。男たちの気配が、す、と引いた。手首が離れる。振り返ったときには、二人とも路地の角を曲がったあとだった。
わたくしは、泥の中から帳面を拾った。表紙の半分が汚れて、頁の縁が黒く滲んでいた。膝も、手袋も、同じ色。しばらくのあいだ、その場に立って、自分の呼吸の速さを数えていた。数えていれば、いずれ落ち着く。数えられるうちは、まだ壊れていない。
*
屋敷に戻って、まっすぐ自分の部屋へ上がった。誰にも会わずに済んだのは、幸運だった。
汚れた手袋を外し、机の抽斗を開けた。写しは二部つくった。一部は、灰になった。ならばもう一部を、明日の荷に入れなければ。
抽斗の中に、それはなかった。
もう一度、抽斗をすべて開けた。書棚の裏も、寝台の下も。無い。無いものは、探しても出てこない。……いつからだろう。昨日はあった。一昨日は、覚えていない。
誰かが、この部屋に入った。
家の者に訊けば、訊いたということが、そのまま誰かへ届く。門の外の男たちが、いつから門の内側に手を持っていたのかを、わたくしは知らない。知る手立ても、ない。
この屋敷には、もう、確かめられない場所がある。
椅子に座って、泥のついた帳面を開いた。ペンを取った。今日のことを書こうとして、最初の一字で、紙の上にインクの粒が落ちた。書き直そうとして、二度、同じ行を書いた。字が、並ばない。並ばない字を眺めているうちに、ペンを置いた。
扉が、控えめに叩かれた。アンナだった。わたくしの汚れたドレスと手袋を見て、何かを言いかけて、飲み込んで、黙って湯と布を運んできた。膝の泥を落とす手つきは、あの子にしては珍しく、無言だった。
言えばいい。ぜんぶ、この子に言ってしまえばいい。
……言えば、この子は的になる。それだけのことだ。
湯の匂いのする部屋で、わたくしは自分の勘定を、もう一度並べてみた。
記録は盾になると、お父様は書いた。その盾は、燃えた。焼いたのは誰かも分からない。抽斗から消えた紙の行き先も分からない。分からないことを、わたくしは書けない。書けないものは、証拠にならない。
仮に、書けたとして。今日の手首の痕と、焦げた店と、消えた紙束を、わたくしはどこへ持っていけばいいのだろう。訴えは検分されねばならない、とお父様は書いた。けれどこの国には、検分する場所がない。訴え出る窓口も、開く扉も、どこにも。証拠を持った人間が、証拠を持ったまま立ち尽くす。それが、この国の裁きの形。
テオは、救えなかった。質屋の親父は、店を失った。アンナは、二人ぶんの仕事を黙って抱えている。お母様の帳簿は赤い線だらけで、領地の代官は悲鳴を上げている。……この一年、わたくしが正しくあろうとして、いったい何を守れたのかしら。
守るために持っていたはずのものが、持つ人の手を焼いている。
窓の外は、もう暗い。三日のうちの、三日目が終わろうとしている。明日の朝、馬車が来る。行き先は領地。条件は、調べを一切やめること。この頁を閉じて、鍵をかけて、そして——それから、わたくしは何になるのだろう。
それでも、わたくしはペンを取り直した。
字が並ばないなら、一行でいい。書かないという習慣を、一日でもつけてしまえば、たぶん、二度と書かなくなるから。
――質屋、小火。写し、焼失。裏道にて、二名。写し、紛失。
書き終えたとき、扉の外に、家令の足音が止まった。
「お嬢様。……お客様が、お見えでございます」
こんな時刻に。この家に。今さら、誰が。
「お名前を、仰らないのです。異国の馬車で、ご当主でも奥様でもなく、お嬢様にご面会を、と」
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