第二十話 掘り当てた人
応接間へ下りる前に、鏡を見た。
膝の泥は落としてある。けれど手首には、掴まれた跡が薄く残っていた。袖を引けば隠れる。引きかけて、手を止めた。……いいえ。今日あったことを、隠す必要はないでしょう。わたくしは、事実を隠す側の人間ではないもの。
家令によれば、お母様にも報せは届いたという。返答は一言だったそうだ。わたくしは、お会いしません。それだけ。廊下ではアンナが、両手を胸の前で握って待っていた。何か言いたそうな顔を、わたくしは見ないふりで通り過ぎた。今のこの家に来る客に、良い用向きなどあるはずがない。この子に、余計な希望を持たせたくなかった。
応接間の扉が開いた。
窓辺に立っていた背の高い青年が、振り向いた。灯りを受けた髪は、銀。夜色の礼服は、この国のどの仕立て屋のものでもない。
覚えている。忘れるはずが、ない。
「あの夜、拍手をなさった方ですわね」
二度だけ手を打ち合わせて、やめた方。誰も続かない拍手を、人垣の外れでひとつ鳴らした方。青年の口の端が、わずかに上がった。
「覚えていてくださったとは。……名乗るのが遅れました。ヴィンセント・レーンハルトと申します」
レーンハルト。その名は、国の名だ。裁判という制度を持ち、お父様が若い頃に学びに行った国。そして、レーンハルトを家名として名乗る者は、この世に数えるほどしかいない。
「大公閣下が、名も告げずに、夜更けの他家の玄関に立つものでしょうか。……証しを、拝見できますこと?」
言ってから、自分の物言いの無作法さに気づいた。相手は隣国の大公である。けれどこの方は、気を悪くするどころか、待っていたような顔をして、上着の内から二つ折りの書状と印章の指輪を取り出し、卓の上に置いた。
わたくしは灯りを引き寄せて、両方を検分した。書状の紙は上質で、透かしは見慣れないもの。文言は正式な体裁。印章の彫りは、封蝋の型と一致している。名乗りを信じないのは、この一年で覚えた作法だった。あの夜の嘆願書も、診断書も、立派な体裁をしていたもの。……ええ。この二つを偽るには、割に合わない手間がかかる。
「よろしいわ。ご本人と、認めます」
「厳しい検分だ」
愉快そうな声だった。憐れみでも、値踏みでもない。あの夜の目と、同じ目をしていた。砂の中から何かを掘り当てた人の目。
「では閣下。ご用向きを伺わせてくださいまし」
「その前に。質屋の火事と、裏道での一件は、伺いました。お怪我は」
息が、止まりかけた。あの店の小火は、下町の噂にもなっていない。裏道の一件を知る者は、わたくしとあの二人しかいない。
「ひと月ほど前から、私の者に、あなたの周りを見させておりました。無断で、です。腹を立てられて構いません」
あっさりと、そう言った。取り繕いも、言い換えもない。腹を立てるより先に、頭の隅が勝手に計算を始めていた。ひと月。人を割いて、他国の令嬢ひとりを見張らせる費え。それを払う相手が、目の前に座っている。
「そして今日、ようやく手を出す筋ができました。……昨日、そちらの写しを、貴国の宮廷に届けさせております」
閣下は、卓の上の書状を、指先で少し押した。
わたくしは、それをもう一度手に取って、今度は文言を追った。文面は短い。レーンハルト大公家として、エルヴィラ・クロスフィールドを賓客として招きたい、ついては渡航の許可を請う。それだけ。
それだけの紙が何をするのかを、行を追いながら、組み立てていく。
賓客として名の挙がった令嬢が、明日、王都から消えるとする。領地に籠り、社交から退き、いつ戻るとも知れなくなる。そのとき宮廷は、隣国に何と返事を書くのだろう。病でございます。静養でございます。……何と書いても、書けば残る。残った紙は、後日、事実と照らし合わせられる。
つまり、わたくしを黙って始末する手は、今日から、紙の上に足跡を残すようになったのだ。手首を掴んだあの力は、たしかに恐ろしかった。けれどそれは、二国の書面の前では、ただの一つの手にすぎない。
顔を上げると、閣下はこちらを見ていた。答えを言わずに、待っている目で。
「……明日の馬車に、乗る理由がなくなりましたわね」
「ご明察です」
……この方は、待っていらした。ご自分の口で説明すれば一息で済むものを、わたくしが辿り着くまで、黙って。そういう待ち方をされたのは、たぶん、初めてだった。
膝の力が、ふいに抜けそうになった。座っていて、よかった。
息を整えてから、わたくしは顔を上げた。ここが、いちばん大事なところだ。ただの善意で、隣国の大公が国境を越えて書面を動かす。そんな勘定は、この世にない。
「では、伺いますわ。あなたは、何をお求めですの」
「よい問いだ」
閣下は、はじめて椅子に腰を下ろした。
「先に一つだけ。私は施しに来たのではありません。雇いに来たのです」
雇う。……ああ、なるほど。ならば、この方が求めているものが、必ずある。
「では、わたくしがお断りしたら。あの書面は、取り下げられますの」
「いいえ」
即答だった。理由も、条件も、付け足されなかった。
この一年、わたくしに差し出された手には、必ず値札がついていた。婚約、縁談、和解の茶番。どれも裏を返せば、代金の額が書いてあった。……この方の書面には、それが見当たらない。見当たらないという事実を、どう帳面に書けばいいのか、わたくしはまだ知らない。
それきり閣下は、次の話へ移るような顔で、卓の上の泥だらけの一冊に目を向けた。
「その帳面を、拝見しても」
わたくしは少し迷って、最後の頁を開いて差し出した。今夜、字の並ばない手で書いた、事実だけの一行。
閣下は、それを長いあいだ読んでいらした。一行しかないものを読み終えるのに、ずいぶんかかっていらした。
「……私は、これができなかった」
声の温度が、少し変わった。
「昔、目の前で理不尽が通ったとき、私は書き留めなかった。立場を守るために、見なかったことにした。あの日のことを、私は今も、証しの一つも持っていません」
それは、大公の顔ではなかった。ほんの一瞬だけ、この方の年齢が、二十代のどこかに見えた。
閣下は帳面を閉じ、両手で、わたくしの側へ返した。
「私の国では今、証拠で人を裁く仕組みを、一から作っております。……その仕事に、あなたの力を貸していただきたい」
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