第二十一話 隣に立つ人
すぐには、答えなかった。
代わりに、わたくしは泥の付いた帳面を引き寄せて、新しい頁を開いた。ペンを執る。字が並ばなかった手は、いつのまにか、言うことを聞くようになっていた。
「お返事の前に、伺いたいことが三つございます。よろしくて」
「どうぞ」
閣下は、背筋を正した。夜更けの令嬢の質問を、正式な交渉として扱う人の座り方だった。
「一つ目。その仕組みは、いま、どこまで出来ておりますの」
「法典は、半ばです。裁きの場は、形だけならございます。判じる者はおりますが、判じたきり誰も後から確かめない。……そして今のところ、使えるのは、書きつけを持つ者だけです」
書きつけを持つ者だけ。
ペンの先が、頁の上で止まった。
僕らには、ああいうの、ないから。——布を巻いた両手を胸に抱えた子が、笑おうとして、笑い方を間違えた顔。あの子の言葉と、いま閣下が仰った言葉は、同じことを指している。国が違っても、同じ形の穴が開いているのだ。
目を閉じれば、見えるようだった。立派な柱の並んだ裁きの場。段の上には、判じる人。段の下に立たされた子どもが、何か出しなさいと言われて、空の両手を差し出す。証拠を出せと言われて出せる者は、初めから証拠を持てる暮らしをしている者だけ。その仕組みは、たしかに神判より進んではいる。けれど、あの子の前ではやはり、扉を閉じている。
それから、もう一つ分かったことがある。出来上がった国は、人を探さない。この方が海を越えて他国の令嬢を見張り、書面まで動かして口説きに来たのは、その仕組みがまだ穴だらけだからだ。求められているのは、飾りではなく、手だ。
「……二つ目。なぜ、わたくしですの」
「二つ、根拠があります」
閣下は、指を一本立てた。
「一つは、広場のこと。神判の場に、誰に頼まれたわけでもない令嬢が現れて、検分の紙を読み上げたと聞きました。人が集まる場所での出来事は、他国の者の耳にも入ります。……あなたは負けた。負けて、何も得ずに帰った」
二本目の指が、立った。
「もう一つは、これです」
卓の上の、泥だらけの帳面。今夜わたくしが、一行だけ書いたもの。
「勝った夜に高らかに記録を掲げる者なら、大勢知っております。負けた夜に、書くことをやめなかった人を、私は他に存じません」
値踏みされている、と思った。思ってから、腹が立っていない自分に気づいた。
この方はわたくしを、家の格でも、噂でも、涙でもなく、やったことで測っている。それは、わたくしが一年かけて人にしてほしいと願ってきた測り方だった。まさか自分がされる側になる日が来るとは、思っていなかったけれど。
「三つ目を、伺いますわ」
声が、少しだけ硬くなった。ここからが、本当に訊きたかったこと。
「……わたくしの隣に立った方は、みな、焼かれておりますの」
閣下の眉が、わずかに動いた。
「口を開いてくれた女中は、遠くへ送られました。帳簿を見せてくれた質屋は、店ごと焼けました。侍女は、噂の的の隣で二人ぶんの仕事をしております。家の帳簿は、赤い線だらけですわ。……わたくしの隣は、そういう場所ですのよ。それでも、お雇いになりますの」
答えるまでに、間があった。誤魔化す言葉を探す間ではなく、正確に言うための間だった。
「焼かれない保証は、できません」
閣下は、そう仰った。
「質屋どのを焼いた者は、明日にも同じことができます。侍女どのにも。……ただ、同じ火を私の家に持ってくるには、国をひとつ相手にする覚悟が要ります。持ってこられる者は、そう多くない」
保証ではなく、寸法の話だった。わたくしが自分でも数えられる種類の答え。……この方は、わたくしの言葉で話す方なのだ。
「では、こちらからも一つ、正直に申し上げておきます」
閣下は、卓の上で指を組んだ。
「私の国で、あなたの家名は何の役にも立ちません」
「……ええ。そうでしょうね」
言われるまでもない。侯爵家の娘という肩書きは、この国の中でだけ通じる紙だ。あちらでわたくしは、後ろ盾のない外国人で、しかも前例のない仕事をする女になる。奇異の目、軽んじる口、実績のない身。あの卒業夜会の広間より、ずっと孤立するかもしれない。
「楽では、ありません」と閣下は仰った。「それでも、来ていただきたい」
求められている仕事の中身も、たぶん、華やかなものではないのだろう。紙を数え、日付を揃え、綴じ、写しを取り、それを誰にでも引ける形に並べる。判じた者の名と、判じた理由を、後から誰かが確かめられるようにしておく。地味で、根気の要る、褒められることの少ない作業。……ええ。わたくしのあの十月は、そればかりで出来ていた。褒め言葉の代わりに、ひとつの夜を生き延びたのだった。
閣下が帰られたあと、わたくしは応接間に一人で残った。
卓の上には、置いていかれた書状の写しと、泥だらけの帳面。廊下の隅では、アンナが灯りを持ったまま、まだ休まずに立っていた。何も訊かない。訊けば答えねばならなくなると、あの子も分かっているのだ。
部屋に戻って、帳面に三つの答えを書き取った。仕組みは半ば。求められているのは実務。隣は、焼ける。書き終えて、四行目のところで、ペンが止まった。
残っている頁がある。テオの頁。忘れさせる側という、顔のない言葉。噂の文面にあった「あの血は、昔から」の一行。お母様の、揺れない三つの条件。……この国に、わたくしはまだ、閉じていない頁を置いていくことになる。
それに。
行くということは、あの方を頼るということだ。頼るとは、荷の半分を人に持たせること。わたくしの持ち方は、ずっと、そうではなかった。ひとりが、いちばん軽い。そう言い続けてきた女が、明日の朝、他人の差し出した紙一枚に乗って生き延びる。
窓辺に立って、外を見た。
通りの向かいの暗がりに、人影はなかった。灰色の外套も、交代の足音も、ない。書面が一枚、国境を越えて動いただけで、三晩そこにあったものが消えている。
あの方の言葉は、本当だった。
夜明けまでに、答えを出さなければならない。馬車は、来る。乗らない理由はもうあるけれど、乗らないと決めることは、まだ、していない。
わたくしは灯りを引き寄せて、白い頁を見つめた。……人の訴えなら、いくらでも検分してきた。自分の訴えを検分するのが、これほど下手だとは思わなかった。
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