第二十二話 二台の馬車
朝、馬車が二台来た。
一台は、鈍色の箱馬車。領地行きの、あの馬車だ。御者の他に、見覚えのない男がひとり、荷台の縁に腰かけている。もう一台は、黒塗りに銀の縁取り。扉に描かれた紋章は、この国のどの家のものでもない。二台は門を挟んで向かい合う形で停まり、どちらの御者も、降りてこなかった。門番が持ち場で棒立ちになり、報せを受けた家令が玄関先へ出て、どちらへ先に頭を下げるべきか決めかねたまま、廊下と玄関先を二往復した。二往復目の途中で窓越しにわたくしと目が合うと、家令は、救われた顔をした。
わたくしは窓辺からそれを見下ろして、机の上の帳面を閉じた。白いままだった頁は、夜明け前に、ようやく埋まっている。
昨夜、閣下が帰られたあと、わたくしは荷造りの続きをしていた。答えの出ないときに手を動かすのは、昔からの癖だ。ドレスを畳み、櫛を仕舞い、洗った手袋を重ねる。
机の上のものは、ひとつずつ手に取って、行き先を決めた。三冊の古い帳面は、鞄へ。あの夜の席次表が挟まったままの、綴じの緩んだ三冊。泥の染みが取れない四冊目も、鞄へ。文箱の底からは、手文庫を出した。中には、お父様の手紙が一通。騒ぐな。記録せよ。記録は、いつかお前を守る盾になる。折り目が白く擦り切れるまで読んだ紙を、封筒ごと、帳面のあいだに挟んだ。盾は、燃えることもある。それを知った上で、持っていく。
夜半に一度、扉が控えめに叩かれて、アンナが白湯を運んできた。荷の散らかった床を見て、何かを言いかけて、やっぱり言わずに、湯呑みだけ置いて下がっていった。あの子と話さねばならないことは、山ほどある。……荷が決まってからだ。順番を、間違えたくない。
それでも頁が埋まらないので、灯りを持って書斎へ下りた。
父の講義録の前に、立った。
持っていくか、置いていくか。綴じ紐に指をかけて、しばらくそのままでいた。これは、調べものに入るのかしら。読み古された書き付けを娘が鞄に入れることまで、あの三つの条件は縛るのかしら。
指が、止まったまま動かない。……いいえ、違う。縛る、縛らないの話ではない。
社交から退くこと。調べをやめること。王都に戻らないこと。三つ並べて、もう一度眺めてみれば、どれも同じ向きを向いている。わたくしがこの国の中にいて、この国の中で口を閉じる。そういう前提で組まれた枷だ。国境の向こうには、届く条文がひとつもない。
枷の効かない場所を、あの方は昨夜、卓の上に置いていった。書状一枚の形で。
綴じ紐を持ち上げて、講義録を胸に抱えた。埃と黴のにおいがした。若い日のお父様が海を渡って学び、持ち帰り、誰にも読まれないまま眠っていた紙の束。この紙は、あちらの言葉を知っている。わたくしよりも、ずっと先に。
父の椅子に、腰を下ろした。相変わらず、わたくしには大きい椅子に。膝の上で講義録を開くと、見慣れた父の字の間に、あちらの国の綴りらしい書き込みが時折混ざっていた。読めない字を、指の腹でなぞってみる。それから閉じて、目を瞑って、隣が焼けることを考えた。
ベルタは遠くへ送られた。質屋は焼けた。アンナは二人ぶんの仕事を抱えている。わたくしの隣が焼けるのは、隣に立つ人のせいではない。わたくしに、火を止める力がないからだ。火を憎んでも、火は消えない。消したければ、水を持つ側に回るしかない。
焼かれない場所で、焼かれない力を持つ。持ってから、この国へ戻ってくる。
書斎を出る前に、講義録を鞄のいちばん底に入れた。夜明け前、帳面の白い頁に、二行だけ書いた。
行く。ただし、戻るために。
玄関へ下りると、鈍色の馬車の男が、ちょうど門の内へ入ってくるところだった。寄り合い筋の、迎えの者。慇懃な一礼と、お支度はお済みでしょうかの口上。その背後で黒塗りの馬車の扉が開いて、閣下が降り立った。
従者が先に進み出て、男の前で書状を一枚、開いて見せた。男の顔から慇懃さが剥がれ落ちるまで、瞬き三つぶん。男は書状とわたくしとを二度見比べ、何も言わずに深く一礼して、引き返していった。門を出る間際に一度だけ振り返り、こちらではなく、黒塗りの馬車の紋章を見ていった。報告に行く者の、目つきをしている。鈍色の馬車が門前を離れ、車輪の音が角の向こうへ消えるまで、誰も口をきかなかった。
紙が、一枚。それだけで、三日がかりで組まれた枷が、朝のうちにほどけていく。あの手首を掴んだ力も、灰色の外套も、この一枚の前では順番を待つしかない。見ておきなさい、と自分の目に言い聞かせた。力の形が変わる瞬間というものを、いま、玄関先で見ているのよ。
「おはようございます、エルヴィラ嬢」
閣下は、何事もなかった顔で仰った。
「お返事を、伺いに参りました」
「参りますわ」
閣下の眉が、わずかに上がった。もう少し長い逡巡を、予想していらしたのかもしれない。
「ただし、契約書に書き加えていただきたいことが、ひとつございますの」
「伺いましょう」
「わたくしは、いずれ、この国に戻ります」
言葉にして初めて、自分の声の静かさに驚いた。夜通し迷った答えというものは、口に出すときには、もう迷いの味がしないらしい。
「あちらのお仕事には、力を尽くしますわ。けれどわたくしの帳面には、この国に置いていく頁が残っております。閉じていない頁を、閉じに戻る日が来る。……その日を、あなたは止めない。そう、書き加えてくださいまし」
閣下は、すぐには答えなかった。値踏みの間ではない。言葉を正確に選ぶ、あの間だった。
「承知しました。ただし、こちらからも書き加えたい条項がございます」
まっすぐな目が、わたくしを見た。
「戻る日には、丸腰で戻らないこと」
丸腰で、戻らない。夜明け前に書いた二行と、同じ場所に立つ言葉だった。この方は、わたくしの帳面を読んでいないのに。
「……承知いたしましたわ」
閣下が、手を差し出した。革の手袋を外した、素の右手。紙に書く前に手で約束するのが、あちらの流儀だと聞いたことがある。
わたくしは、自分の右手を見下ろした。ペンだこと、落ちないインクの染み。一年のあいだ、帳面ばかり握ってきた手。人の手を取った覚えの、ほとんどない手。
一拍、遅れた。
それでも、取った。
大きくて、乾いていて、思ったより硬い手。剣も握る手なのだと、握ってから知った。わたくしの荷物のいちばん重いところに、これからは、この手が加わる。
「出立は、いつになさいます」
「三日後に。……渡航の書類と、船の手配に、それだけかかります。支度と、お別れの時間にお使いください」
三日。三つの条件の期限と、同じ長さ。同じ三日が、こうも違う色をして見えるものかしら。
門の外で、黒塗りの馬車が待っている。空は晴れて、風は北から吹いていた。
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