第二十三話 盾は、増える
出立まで、あと二日。わたくしは衣装箱の底から、木綿のドレスをもう一度出した。
神判の日に着た、あのドレスだ。袖口のほつれを、指で確かめる。あの日のまま。飾りのない袖に腕を通すと、あの広場の焦げた鉄の匂いまで一緒に袖を通ってくる気がした。着替えは他にもある。それでも、これで行くべき筋の挨拶だった。
挨拶に行かねばならない人が、下町にいる。世話になった人に黙って国を出るのは、勘定の合わない話だ。アンナには市場の供を頼んだ。あの子はドレスと籠を見て、少しのあいだ黙って、それから「はい」とだけ言って支度をした。
市場は、いつも通りの朝だった。荷車の軋み、呼び込みの声、水を撒いた石畳。いつも通りでないものに気づいたのは、八百屋の前を通ったときだった。
おかみさんが、こちらを見た。目を逸らさなかった。それだけではない。籠の芋を選んだアンナに、おかみさんは釣り銭を、手のひらへ載せて渡した。台の上ではなく、手から手へ。指が触れるのも構わずに。
アンナの足が、一瞬止まった。あの子も、覚えていたらしい。
次の角では、粉屋の親父が小さく頭を下げた。洗濯籠を抱えた娘たちが、すれ違いざまに揃って会釈をしていった。いつか屋敷の廊下で神判の噂をひろめていた声と、同じ年頃の娘たち。噂は風向きが変われば、逆にも吹く。井戸端の女たちは、声をひそめはしたけれど、その囁きは、わたくしの背中を刺す種類のものではなかった。風向きが、変わっている。配られた噂は、まだどこかで配られているのだろう。けれど噂より重いものが、この通りには育ちはじめていた。
搬入口の近くで、料理長を見つけた。粉の染みた前掛けは、あの日のままだった。違うのは、彼が荷車の陰へわたくしを引き込まなかったことだ。店先の、往来から丸見えの場所で、彼は立ち止まって、帽子を取った。鍔に、粉の指の跡が残っていた。
「……あんたか、お嬢さん」
「ご挨拶に伺いましたの。しばらく、国を離れますので」
「聞いてるよ。ライマールの旦那を、紙でやったんだってな」
紙でやった。乱暴なまとめだけれど、下町の言葉としては、それで正確なのだろう。料理長は前掛けで手を拭いて、懐から折り畳んだ紙を出した。
「テオから、文が来た。字は伯父さんの代筆だがな。読むかい」
往来の真ん中で、わたくしはその紙を開いた。
拝啓、りょうり長さま。手のきずは、ふさがりました。かなづちはまだ持てませんが、めし炊きと、ふいごは持ち場をもらいました。伯父さんはこわい人ですが、めしは多いです。あのお嬢さんに、会うことがあったら、つたえてください。ぼくは、げんきです。
最後の一行の字だけ、ほかより大きかった。代筆の伯父が、そこだけ言われた通りの大きさで書いたに違いない。あの子が、机の向こうで身を乗り出して、ここは大きく、と指さす姿が見える。
紙を折る手が、二度で済まなかった。三度目で、折れた。アンナが横から覗き込んで、洟をすすった。料理長は文を受け取ると、それを大事そうに懐へ戻した。
「あのときはな、お嬢さん。俺は坊ちゃまのことを言えなかった。女房も子もいる。今だって、言えるかどうか分からねえ。……けどな」
彼は往来を見た。八百屋を、粉屋を、井戸端を。
「ここいらの連中は、みんな見てたんだ。あんたが検分の紙を読み上げたのを。神判で決まったことが、ほんとは決まってなかったのを。……忘れちゃいねえよ、誰も。この町はな、忘れろと言われるのだけは、得意じゃねえんだ」
それから彼は、声を少し落とした。ヴォルマーの坊ちゃまは、あれから領地の別邸に移されたらしい。表向きは、ご静養。罰と呼べる代物ではない。それでも台所の連中は、銀器の数を数えるたびに、別邸の方角を見るのだという。裁きの帳尻も、噂と同じで、遅れて歩いてくることがあるらしかった。
忘れることでできている国の、その足元で、忘れない人たちが暮らしている。帳面を持たない人たちが、それでも、目と耳で覚えている。あの広場でわたくしは負けた。負けた検分の紙が、二月かけて、この通りをここまで歩いてきた。
勝ち負けの帳尻は、その場では合わないことがある。それを教わったのは、今日が初めてだ。
帰り際、アンナは八百屋に寄って、芋を三つ買った。籠に入れてから、入れ直して、また並べ直していた。指が忙しいのは、あの子が何かを堪えているときの癖だ。帰りの道すがら、籠の中で芋がことりと鳴った。アンナはずっと黙っていた。目の縁だけが赤かった。
屋敷に戻ると、家令が報せを持って待っていた。領地の穀物に、買い手が一軒、戻ったという。値は渋いが、来年の作付けには間に合う勘定だと、代官の文には、久しぶりに悲鳴でない文字が並んでいた。暇を取った若い使用人のうちひとりが、戻れないだろうかと家令に文を寄越したとも聞いた。潮が引くときと同じで、満ちるときも、水は音を立てない。書状一枚と、失脚した伯爵と、下町の風向きと。どれがどれだけ効いたのかは、帳面にも書き分けられない。ただ、水位は戻りはじめている。
夕刻、書斎へ下りた。窓の光が、斜めに傾いている。講義録を持ち出したあとの棚には、四角い跡がひとつ、埃の中に白く残っていた。指でなぞると、埃だけが指に付いた。
父の椅子に、腰を下ろす。今日は、講義録の代わりに帳面を膝に載せた。荷の中身を検分するように、この二月で手に入ったものを、一行ずつ書いてみる。
評判。紙で貴族を斬った令嬢、と呼ばれていること。後ろ盾。書状一枚で、鈍色の馬車を門前から退かせたこと。それから、通りの目と耳。釣り銭が、手のひらに戻ったこと。
書き並べて、しばらく眺めた。どの行も、一年前のわたくしの帳面には、書きようのなかった行ばかりだった。あのころ書けたのは、日付と、席次と、言われた言葉だけ。守るための紙に、いつのまにか、戦うための行が増えている。
お父様、と胸の内で呼びかける。あなたの講義録には、正しさの磨き方が書いてありました。何度も線を引いて、削って、置き直して。……けれど、磨いた正しさを何で守るのかは、どの頁にもありませんでしたわ。あなたはたぶん、正しさだけを持って、どこかへ挑んだ。そして書斎だけが、残った。
わたくしは、順番を変えます。守るものを先に集めて、それから、挑みに戻ります。
椅子から立ち上がって、気づいた。この椅子は、まだ大きい。……大きいけれど、座り方は、覚えはじめている。
部屋へ戻る廊下の角で、アンナが待っていた。
盆も、灯りも持っていなかった。手ぶらで、まっすぐに立って、わたくしの目を見ていた。三年のあいだで、初めて見る立ち方だった。
「お嬢様。……お話が、あります」
読んで下さりありがとうございました!
★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!
Youtubeにて作品公開中!
http://www.youtube.com/@mizukara-h2z
ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。




