第二十四話 そうしたいから
話は、わたくしの部屋で聞いた。
荷造りの途中の部屋だった。開いた鞄がふたつ、蓋を待っている。畳みかけのショールが椅子の背に掛かり、机の上には帳面が四冊、紐で括られて積んであった。灯りはひとつ。窓の外は、もう暗い。
アンナは扉を後ろ手に閉めて、そこから一歩も動かなかった。エプロンを着けたままだった。仕事着のまま、仕事の顔で来た、ということかしら。両手を前で重ねて、背筋を伸ばして、息をひとつ整えてから、深く頭を下げた。
「わたくしも、お連れください」
言い終えても、頭を上げなかった。つむじと、白い項と、固く重ねられた指が見えるだけ。三年間で聞いたことのない、低い声だった。
わたくしは、椅子を勧めなかった。座らせてしまえば、この話は世間話の背丈になる。この子は、立ったまま聞かれるつもりで来ている。それくらいは、分かる。
「顔を上げなさい、アンナ。……話は、座らずに済ませましょう」
上がった顔は、泣いていなかった。それが、いちばん厄介だった。泣かれるなら、宥めればいい。この顔は、宥める隙のない顔だった。
わたくしは、危険を順に並べた。海の向こうの、言葉も違う国。わたくしはあちらでは後ろ盾のない外国人で、あなたはその外国人の侍女になる。それから、この二月の騒ぎのこと。この子は全部、間近で見てきた。ベルタの行方も、焼けた店も、門の外に立っていた灰色の外套も。ひとつ並べるたびに、はい、とだけ返ってくる。はい。はい。声は低いまま、揺れもしない。矢の刺さらない壁に向かって、弓を引き続けている音を、自分の耳で聞いていた。
「わたくしは、あなたに約束できるものが何もないのよ。給金の高も、身の安全も、帰る日も。何ひとつ」
「はい」
息を吸って、最後の矢をつがえた。
「お母様と、弟さんがいるでしょう。下町に」
雇い入れの書付にあった家族のこと。父親は早くに亡く、母と、年の離れた弟。この子の給金の行き先を、わたくしは知っている。
「昨日、話してきました」
アンナは、まばたきもしなかった。
「弟はもう、指物屋で働いてます。お母さんには、あちらから為替で送れるって、大公さまの従者の方に聞きました。お母さんは、行っておいでって。お嬢様のところなら心配ないって、そう言いました」
昨日。わたくしがまだ、この子にどう切り出すかを決めかねていた昨日のうちに、この子は、実家の台所で話をつけてきていた。為替の手順まで調べて。矢をつがえる的が、とうに移動している。
「……なぜ」
問いが、口から零れた。理屈の形をしていない、ただの問いが。アンナの重ねた指の、指先だけが白くなっているのが見えた。壁のように立っていても、力は要るらしい。
「なぜ、そこまでするの。わたくしはあなたに、労いの言葉ひとつ、まともにかけられたことがないのよ。給金に色をつけて、あなたを傷つけたことすらある。見返りなんて、何も——」
「わたしが、そうしたいからです」
遮られた。この子に言葉を遮られたのは、三年間で、初めてのことだった。
アンナは、それ以上を言わなかった。理由の列も、思い出話も、忠義の口上も。ただ両手を前で重ねたまま、まっすぐにわたくしを見ている。そうしたいからです。帳面のどの頁にも書きようのない、勘定にならない答えが、部屋の真ん中に置かれていた。
わたくしは、置かれたそれを、しばらく眺めた。三年前、雇い入れの日のこの子の顔を思い出そうとして、うまく像を結ばなかった。いつのまに、この子はこんな顔ができるようになっていたのかしら。帳面に書いてこなかったものは、こんなにも、思い出せない。
拾い方が、分からなかった。値札がない。貸し借りの形をしていない。損得の言葉に訳そうとすると、指の間から零れていく。三冊の帳面をどれだけ繰っても、似た取引は一件も載っていないはずだった。イリス様の涙は読めなかった。あの方の乾いた目は読めた。この子の「そうしたいから」は——読めないまま、なぜだか、疑う気持ちだけが起きなかった。
「焼かれるのよ、わたくしの隣は」
最後に残った、理屈ですらない言葉を、それでも言う。アンナは首を横に振らない。振らないまま、言った。
「隣で見てるだけのほうが、ずっと熱いです」
……ああ。
この理屈を、わたくしは知っている。三日前の夜、応接間で、わたくし自身が呑まされたものと同じ形をしている。保証はできません、と閣下は仰った。それでも来てほしいと。危険を並べて断る道は、いつでもあった。選んだのは、わたくし。危険の寸法を測る権利と、それでも行くと決める権利は、別のものとして、わたくしの手の中にあった。
その同じ権利が、いま、この子の手の中にある。取り上げる筋は、わたくしのどこを探しても、出てこない。
窓の外で、風が鳴った。ガラスが小さく音を立てて、灯りの炎が一度だけ揺れた。北からの風。三日後には、あの風の来る方へ発つ。
「……向こうは、寒いそうよ」
「厚着します」
即答だった。頬のあたりが、ようやく少しだけ、あの子らしく緩んだ。三年間、湯を運び、髪を結い、市場で芋の値を聞き比べてきた子の顔に、ようやく戻った。
「契約書に、書き加えることがまた増えたわね。従者一名の同行と、その身の安全」
「はい。お嬢様の紙は、強いですから」
紙に書けることは、全部書かせていただくつもりだった。条項がまた増えたと聞くときの、閣下の顔が目に浮かんだ。
話が済んで、アンナが下がろうとして、扉の前で一度止まった。それから思い出したように振り向いて、廊下の隅から何かを抱えて戻ってきた。
風呂敷包みが、ひとつ。角の擦れた、木綿の風呂敷。固く幾重にも結ばれて、持ち手の輪まで拵えてある。結び目の脇には、小さな継ぎが当ててあった。長く使われた布の、長く使われた擦れ方だった。
「荷物です。……その、先に、括ってあったので」
「いつから」
アンナは、少しだけ目を伏せた。
「お嬢様が、大公さまと握手をなさった日から」
三日前。わたくしが答えを出したその日に、この子はもう、荷を括っていた。連れて行くと言われる前から。断られたら、どうするつもりだったのかしら。訊かなかった。訊いても、きっと同じ答えが返ってくる。そうしたいからです、と。
アンナが下がった部屋で、わたくしは灯りを引き寄せて、その包みをもう一度眺めた。それから持ち手の輪に指を通して、鞄の隣に並べた。革の鞄と、木綿の風呂敷。並びの不揃いが、妙に落ち着いて見えた。
無償という勘定を、わたくしはまだ読めない。読めない荷物が、隣にひとつ増えた。重くなるはずの旅支度が、どうしてだか、そうならなかった。
窓の外で、また風が鳴っている。明日は、お母様にお話をしなければ。……それはたぶん、今夜より、ずっと難しい。
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