第二十五話 渡されなかったもの
朝から、部屋が広くなっていく。
物が減るというのは、そういうことらしい。鞄は廊下に出た。帳面の束も、講義録も、風呂敷包みも。残ったのは、寝台と、空の机と、壁の色の褪せの差だけ。絵の掛かっていた場所が、四角く濃い。三年住んだ部屋の、それが跡のすべてだった。思い出は、鞄に入れた側にある。壁には、色の濃さしか残らない。
午後、わたくしは階下へ降りた。
お母様の部屋の扉を、叩く前に、一度だけ手を下ろした。
袖を直す。息を整える。することがなくなってから、あらためて、二度叩いた。お入りなさい、と返る声は、いつもと同じ高さだった。
お母様は、机で帳簿をつけていらした。窓からの午後の光が頁の上に落ちて、赤い線の引かれた行が、遠目にも減っているのが見えた。窓辺には、刺繍枠がひとつ。針は刺さったまま、糸は半分で止まっている。この方の刺繍は、本物のほう。壁に、お父様の肖像はない。この部屋には、昔からない。ペンは、わたくしが絨毯の中ほどまで進んでも、まだ動いていた。
「明日、発ちます」
ペン先が、行の終わりまで走って、止まった。
「行き先は、レーンハルト。大公家の招きで、あちらのお仕事をお手伝いすることになりました。……領地ではなく、国の外へ参ります」
お母様は、ペンを置いた。インク壺の縁で先を拭い、蓋を閉め、それから初めて、顔をこちらへ向けた。
「そう」
それだけだった。驚きの色は、見えなかった。閣下の来訪も、玄関先の二台の馬車も、この家の中のことだ。とうにご存じだったに決まっている。それでも、国の名を聞いて眉ひとつ動かない。いいえ。読もうとするのは、よしましょう。わたくしはこの方の頁を、一度も正しく読めたことがないのだから。
「それが、いいでしょう」
お母様は、机の上で手を組んだ。
「家からは、静養のためご縁のある家に長逗留、と届けておきます。行き先は伏せて。……戻る当てのない娘の噂は、三月もすれば誰もしなくなるものよ」
手回しの良さは、いつも通りだった。娘の出国が、帳簿の一行のように処理されていく。損金の欄か、それとも——考えるのは、やめた。処理してくださること自体が、この方の仕事のやり方で、この方の、たぶん精いっぱいなのだ。それくらいは、この二月で分かるようになった。
「アンナを連れて参ります。あの子の家には、話が通っております」
「そう。……気立てのいい子ね。大事になさい」
思いがけない言葉に、一拍、返事が遅れた。この方の帳簿には、使用人の頁もあったらしい。三年間、湯を運び髪を結ってきた子の気立てを、この方はこの方で、どこかの行に書き留めていた。お母様は、もう帳簿の表紙に目を落としている。
しばらく、どちらも黙っていた。掛け時計の振り子だけが、部屋の音だった。光が、机の上を少しずつ動く。お母様の組んだ手は、動かない。爪の先まで、手入れの行き届いた手。家をひとりで支えてきた手は、存外、細かった。言うべき実務は、終わっている。あとは、言わないと決めていることと、言えないことが残っているだけ。
誰の言葉で、わたくしに仰ったの。
あの夜から喉の奥に住みついている問いが、今日も、出口のところまで上がってきていた。三つの条件を運んできたのは、誰。この家の水位を上げ下げしているのは、誰の手。お母様、あなたは何を知っていて、何と引き換えに、あの揺れない言葉を読み上げたの。
……訊かない。
訊けば、お母様は嘘を吐くしかない。この家に残るのはこの方で、発つのはわたくしだ。答えられない問いを置いていくのは、餞別ではなく、ただの荷物になる。荷物は、自分の分だけで足りている。
それに。もし答えを聞いてしまったら、わたくしは明日、発てなくなるかもしれない。荷は、もう括ってある。船も、待っている。ええ、白状すれば、それがいちばん大きい。訊かないのは情の顔をした、ただの臆病かもしれなかった。
「では、お母様。お世話になりました」
立ち上がって、裾を直して、習った通りの礼をした。深く、長く。頭を下げたまま、絨毯の織り目を数えるあいだ、部屋の空気は動かなかった。
「エルヴィラ」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
「お父様のことは、忘れなさい。あちらでは、調べものはほどほどに。……静かに、お暮らしなさい」
忘れなさい。この二月で、何度いただいた言葉かしら。書斎で、廊下で、そして今日、別れの席で。わたくしは覚えている側の人間に生まれついたのだと、あの夜、この方の背中に言えなかった言葉を、今日も言わなかった。代わりに、口が動いた。
「はい」
嘘は使わない。それがわたくしの、たったひとつの流儀のはずだった。武器はいつも、本当のことだけ。けれどこの方は、わたくしが武器で話す相手ではない。生まれて初めて、母に向かって、綺麗な嘘をついた。はい、と。忘れるつもりなど、頁の端ほどもないままで。言った舌の上に、慣れない味が薄く残った。嘘とは、こういう味がするものなのね。皆さま、よくこれを毎日お使いになれること。
お母様は、頷いた。それで、終わりだった。
扉へ向かって、絨毯を戻る。把手に手をかけたところで、背中のほうで、小さな音がした。
振り向くと、お母様の右手が、机の袖の抽斗にかかっていた。抽斗は、半分だけ開いていた。縁に、指が四本、掛かっている。中は、ここからは見えない。お母様はその姿勢のまま、二つ、三つ、数えるほどのあいだ、止まっていらした。
それから、抽斗は、閉じられた。
音は、立たなかった。お母様は帳簿を引き寄せ、ペンを取り、次の行に取りかかる。わたくしに、何も仰らなかった。何も、渡されなかった。
「……ごきげんよう、お母様」
廊下に出て、扉を閉めた。
把手から手を離すまでに、少しだけ、間が要った。指は、冷えていない。それを確かめてから、離した。扉一枚の向こうで、ペンの音が、規則正しく再開されるのが聞こえた。あの抽斗に何が入っているのかを、わたくしは知らない。持っていけるものなら、渡されていたはず。渡されなかったのなら、それはこの家に残るもの。そう整理して、頁を閉じることにした。閉じた頁は、逃げない。逃げないことだけは、この二月で、よく分かっている。
階段を下りる途中、書斎の扉の前で、足が少し緩んだ。中には、空いた棚がある。四角い埃の跡も、そのままのはず。持っていくものは、もう持った。扉には、触れずに通り過ぎた。
廊下の窓の外で、荷馬車の音がした。明日の朝のための、荷の下見に来た従者の方たち。アンナの声が、指図をしている。右はそちら、割れ物はこちら。存外、通る声で。三年のあいだ、この声の大きさを、わたくしは知らずにいた。
明日、発つ。
この家でわたくしが持っていけるものは、もう全部、鞄の中にある。
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