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第二十六話 新しい帳面

 馬車は、約束の刻限より早く、門の前に着いた。

 二台。前が人を、後ろが荷を載せる。扉に描かれた紋章は、この王都のどの家のものでもない。御者台の従者が帽子を取って一礼して、玄関までの石畳に、朝の影が長く伸びていた。

 見送りは、家令と、料理番と、下働きの娘がひとり。三人が階段の下に並んで、それで全部だった。広い玄関前に、三人きり。この家に仕える人の数を思えば、並ばなかった側のほうがずっと多い。それはそれで正直な人数と呑み込んで、わたくしは階段を降り、一人ずつに礼を言った。

 家令は、型どおりの口上を最後まで言えなかった。道中のご無事を、のあたりで声が細くなり、途切れた。この人は、わたくしが生まれた日からこの家にいる。頭を下げたきり上げないので、こちらが先に背を向けるほかなかった。

 料理番は、布を掛けた籠をアンナの腕へ押しつけた。中身は訊くな、という顔で。下働きの娘は、袖で目を押さえていた。この二月、家の中で誰かに泣かれたのは、これが……いえ、数えるのはよしましょう。数え始めれば、置いていく荷が増える。

 乗り込む前に、一度だけ、二階を見上げた。お母様の部屋の窓は、閉まっていた。硝子が朝の空を映して、白い。中は、見えない。見えないものを、わたくしは書かない。それだけのことにして、踏み台に足を掛けた。

 扉が閉まると、家は硝子一枚の向こうの絵になった。車輪が回り出す。絵が後ろへ流れた。門柱に切られて、消えた。

 門を潜るとき、家令の声が遅れて追いついた。行ってらっしゃいませ、と。口上の続きは、外の風に半分持っていかれながら、それでも最後まで届いた。

   *

 朝の王都は、わたくしの出立を知らずに働いていた。パン屋の窯の匂いが往来まで溢れて、市場へ向かう荷車が石畳を鳴らしている。水売りの呼び声。寺院の鐘。三年前と、同じ音がする。この街は、わたくしを断罪した朝も、この音で始まったはずだった。

 大通りの先に、あの広間の屋根が見えた。婚約の破棄を言い渡された広間。皆さまの前で罪状を読み上げられ、わたくしが帳面を開いた場所でもある。屋根の上の旗が、風のない朝に、だらりと垂れている。馬車は速度を緩めもせずその前を過ぎて、窓の枠のなかで、屋根は右から左へ流れて、それきりになった。存外、それだけだった。

 橋の上では、花売りの娘とすれ違う。籠の中で、朝摘みの花が揺れていた。誰かの食卓か、祝いの席へ行く花で、わたくしの見送りではない。それでいい、と窓の内で頷いた。

 道は途中で、下町へ折れる筋から逸れた。焼けた質屋のあった通りは、ここからは見えない。親父さんは南へ発ったと聞いている。見えない店へ、胸の内で頭だけを下げて、角を過ぎた。

 城門が近づく。門前には検めを待つ荷車の列ができていたが、紋章つきの馬車は、その脇を通って門衛の前へ進んだ。従者が書状を示す。門衛が姿勢を正す。槍の穂先が引かれる。半日並ぶ列の脇を、わたくしたちは息三つで抜けようとしていた。

 その門衛の後ろ、壁の日陰に、灰色の外套がひとり立っていた。見覚えのある背格好。手首を掴んだ手の持ち主かどうかまでは、分からない。男は動かなかった。動けなかった、が正しいのでしょうね。異国の紋章を検める手を、あの外套は持っていない。わたくしは窓の内から男の目を見て、男のほうが先に、目を逸らした。

 門を、抜けた。

 石畳が途切れて、車輪の音が土の音に変わった。たったそれだけの違いが、耳には、国境より大きく聞こえた。

   *

 街道が丘にかかって馬車が緩んだところで、隣のアンナが窓へ張りついた。

「お嬢様、王都が」

 釣られて、わたくしも振り返った。朝靄の上に、屋根の連なりと、城の尖塔と、白い城壁。掌に載るほど、小さい。十九年を入れた街が、窓の枠ひとつに収まって、揺れていた。

 覚悟をして振り返ったつもりだった。押し寄せる何かを受け止める構えまで、胸の中に作ってあった。けれど、来ない。どこを探っても、崩れるものが見当たらない。捨てられたのはこちらの側のはずなのに、荷解きの済んだ部屋のように、がらんと軽い。この軽さの帳尻を、わたくしはまだ合わせられずにいる。薄情かしら、と唇の内で呟いた。誰にともなく。

「……小さいですね」

「ええ」

「あの中で、ずっと暮らしてたんですねえ」

 アンナの言い方には、湿り気がなかった。感心と、ほんの少しの呆れ。遠足の子どもの言い草だった。張っていた肩から力が抜けて、この子と発ってよかったと、危うく口に出しかけた。代わりに、膝の上の手袋の皺を直した。

 丘を越えると、王都は見えなくなった。

   *

 昼前の休みで、アンナは料理番の籠を開けた。まだ柔らかいパンと、固茹での卵と、塩の小壺。それから自分の風呂敷包みの底を探って、四角いものを取り出した。

「これ、その……お渡しするものが」

 差し出されたのは、帳面だった。新しい帳面。麻糸で綴じた、飾りのない表紙。下町の紙屋の品だと、紙の色で知れた。上等ではない。そのぶん綴じは固く、頁の数は、わたくしの使い慣れたものより多い。

「市場の紙屋で。お嬢様の帳面、もうすぐ終わりそうでしたから。あちらで同じ紙が買えるか、分からなくて」

 三年のあいだ、湯を運び、髪を結い、わたくしが夜更けに頁を繰る音を壁越しに聞いてきた子。残りの頁数まで、数えられていた。給金から出したのかと訊きかけて、やめた。値段を訊けば、この包みに値札を付けることになる。付けてはいけない値札が世の中にあることは、つい先日、教わったばかりだった。

「……ありがとう。大切に使うわ」

 アンナは耳まで赤くなって、パンを配る仕事へ逃げた。

「向こうのお芋は、どんな味でしょうね」

 パンをちぎりながら、真顔で案じている。海山を越える旅で、この子が最初に心配したのがお芋だった。市場で確かめましょう、と答えると、はい、と弾んだ返事がくる。籠の卵が、ひとつ、わたくしの掌に載せられた。

   *

 馬車が再び走り出してから、わたくしは膝の上で、新しい帳面を開いた。一頁目。何も書かれていない紙は、いつ見ても少しだけ眩しい。旅装の胸元からペンを取り、インクを含ませて、揺れる車内で最初の行を書く。

 字は、揺れた。道のせいだ。今度ばかりは、胸を張ってそう言える。

    ――出立。晴れ。同行、一名。

 書いてから、しばらくその行を眺めた。同行、一名。この帳面は、どうやら一行目から、わたくし一人のものではないらしい。

 窓の外を、名前を知らない野の色が流れていく。北の国境まで、馬車で五日と聞いた。向かいの席ではアンナが早くも舟を漕ぎ始めて、籠を抱えたまま、揺れに合わせて頭が傾いでいく。起こさなかった。この子の旅は、この子の頁に書かれればいい。わたくしは帳面を閉じて、表紙に掌を置いた。薄い表紙の下で、まっさらな頁が、五日ぶんよりずっと先まで続いている。


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