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第二十七話 紙一枚

 五日目の朝、風に水の匂いが混じった。

 街道の両側は、いつのまにか畑が葦の原に変わっていた。地面が低い。轍に溜まった水が、空の色をそのまま映している。御者台の従者は、昼過ぎには渡し場だと言った。国境は、川。この五日で覚えたことのひとつだった。

 二日目の宿で、アンナは女将と喧嘩ができなかった。訛りが強くて、半分も聞き取れなかったからだ。それでも寝具の薄さは身振りで通じて、夜には毛布がもう一枚届いた。この子は、言葉の通じない場所でも用を足せるらしい。わたくしは寝台の上で、その日の一行を書いた。

 三日目は、橋の普請待ちで半日を潰した。石を積む音を聞きながら、馬車の中で膝に帳面を載せていた。書くことのない日にも、日付と天気だけは埋めておく。埋めた頁は、後で意味を持つことがある。

 四日目の宿場では、市の立つ音で目が覚めた。呼び売りの声に混じる物の名が、王都と違う。芋の呼び名が変わってしまったと、アンナが不服そうに報告してきた。それでも三つ買って、皮ごと焼いて、二人で食べた。粉の吹いた黄色い断面から、湯気が細く上がっていた。王都の芋より、甘い。

 五日目の昼前に、関所の屋根が見えた。

   *

 列は長かった。荷馬車と、羊の群れと、背負い籠の男たち。ここでは、扉の紋章は脇の道を作らなかった。国を出る手続きは、国の中を通る手続きとは違うらしい。わたくしたちも馬車を降りて、日向の列の最後尾に並んだ。

 日向で待つあいだに、前の荷馬車が二度、荷を全部下ろさせられた。積み直す男の背中を、アンナがずっと見ていた。ときどき、自分の風呂敷包みの結び目を確かめている。半刻ほどで、机の前に立った。

 門吏は、日に焼けた四十がらみの男だった。従者が差し出した書状の束を机に並べ、指で押さえながら、一行ずつ読む。読むのが速くない。唇が小さく動いている。読み終えるまでに、隣の柵を羊の群れがひとつ通り過ぎていった。

 わたくしは、名前のところで指が止まるのを待っていた。この二月、この名は王都の広間から下町の路地まで行き渡っている。国境の詰所に届いていない道理はない。返される言葉の形を、三つばかり用意して立っていた。

 男は、名前を読んだ。読んで、次の行へ移った。

 それだけだった。封蝋の位置と、印章の形と、日付。この人が確かめていたのはそこで、わたくしの名は、通り過ぎていく文字の列のひとつでしかない。用意した三つの言葉は、口の中に置き場を失って、そのまま溶けた。

「通ってよろしい」

 男は書状を揃えて返した。指の爪が、少し割れていた。

   *

 次に、アンナが前へ出た。

 この子の紙は、薄かった。侯爵家に仕える者であることの書付が一枚。折り目のところが、少し柔らかくなっている。

 門吏の指が、止まった。

「侍女さんの、国外へ出る届けは」

「……届け、ですか」

「家からの届けが要ります。侯爵家の使用人でしょう。家の名で、この者を国外へ出しますという一筆が」

 出るはずがなかった。この家は、娘が国を出たこと自体を、誰にも言わない仕立てで送り出している。静養のため、ご縁のある家に長逗留。その届けの中から、侍女の名だけが出てくることは、ない。伏せると決めた側の手落ちではなく、伏せると決めればそうなるというだけのこと。

 アンナは、両手を前で重ねた。あの、動かない立ち方で。

「決まりですんで」

 門吏の声に、意地の悪さはなかった。悪意のない机ほど、動かないものはない。後ろに並んだ列から、誰かの舌打ちが聞こえた。日はもう傾き始めている。男は机の端の木札を指で弾いて、次の者を呼ぼうとした。アンナが、風呂敷包みを持ち直す音がした。

 わたくしは三年、この子のそばにいた。湯の加減も、髪の結い方も、市場でどの店の芋が高いかも、この子から教わってきた。熱の出た夜に額の布を替えてくれた手の冷たさまで、覚えている。その三年を、この机の上に置ける形に、わたくしは持っていない。口で言えば、雇い主の身贔屓になる。この子について知っていることを全部並べても、一枚の紙にもならない。

 旅装の内袋に、指を入れた。紙が三枚。厚みで選ぶ。畳んだものを一枚だけ引き出して、机の上で開いた。

 大公家との取り決めの写しだった。発つ前に条項が増えた、あの一枚。従者一名の同行と、その身の安全について。名前も、生まれた町の名も、母と弟の続柄も書いてある。末尾に署名と、赤い封蝋。

 門吏は、封蝋を親指でなぞった。それから机の下から帳面を引き出して、綴じの間に指を入れ、紋の見本らしい頁と突き合わせた。目が、二度往復した。

「……ああ。こちらの紋でしたら」

 通った。

 この子の名を通したのは、わたくしの声ではない。わたくしが三年で知った何ひとつでもない。他所の国の家の、封蝋がひとつ。書付が返されて、アンナが小さく息を吐いた。吐いてから、こちらを見て、いつもの顔で笑った。

   *

 関所を出ると、道はすぐ下りになって、葦の間から水が開けた。

「お嬢様、これ、海じゃないですか」

「川だそうよ」

「川が、こんなに太っていいんですか」

 向こう岸は、霞んで低い。河口が近いのだと従者が言った。渡し賃を払う列に並ぶあいだ、アンナは繋がれた船の数を数えていた。九つまで数えて、途中でやめた。同じ形の船が多すぎて、どれを数えたか分からなくなったらしい。

 平底の船に、馬車ごと乗る。板の渡しを、馬が嫌がって二度足を止めた。牛を連れた男と、籠を背負った女と、わたくしたちで、船縁がずいぶん低くなった。牛の匂いと、濡れた縄の匂い。船頭が竿で岸を突くと、地面のほうが後ろへ動いた。

 水の上に出ると、音が減った。櫂の音と、船腹に当たる水の音だけになる。牛が一度だけ鳴いて、それきり黙った。振り返っても、関所の屋根はもう葦に隠れて見えない。国境というものを、わたくしは線だと思っていた。渡っているのは、面だった。

 膝の上で、新しい帳面を開いた。

    ――五日目。晴。渡河。同行一名、無事。

 書いてから、内袋の紙をもう一度出して、書いた頁の隣に挟んだ。畳み皺のついた、他所の国の紙。これがなければ、この子は今ごろ、向こう岸を見ない場所に立っている。

 アンナは舳先のほうで、裾を押さえながら船頭に何か訊いていた。訛りは、こちら側でも通じていないらしい。それでも笑い声のほうは、ちゃんと返っている。

 紙は、強い。この子がそう言ったとき、わたくしは頷いただけだった。今日、その言葉の裏側を見た。強い紙を持っている側に、わたくしはたまたま立っていた。それだけのことで、机の向こうとこちらが決まる。

 水を含んだ風が、頁をめくった。押さえて、閉じた。

 向こう岸の石垣に、赤と白の旗が並んで立っている。屋根の色が、母国のそれより明るい。船が、杭のほうへ寄っていく。


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