第二十八話 まだ屋根のない
対岸の桟橋は、石で組まれていた。
牛が先に降りて、荷が降りて、最後に人が降りた。板を踏んだとき、足の裏に固いものが当たった。丸太を並べただけの母国側の渡し場と違って、こちらは継ぎ目が揃っている。荷を担ぐ男たちの掛け声が、聞き取れない言葉で頭の上を行き交っていた。
小屋の前で、また列に並んだ。日陰が涼しい。こちらの役人は若い女で、書状を受け取ると、頁を繰りながら羽根ペンで何かを書き写した。書き写す時間が、長い。国を出るときは読まれるだけだったのに、入るときは書かれる。名前と、日付と、来訪の目的の欄。わたくしの名が、この国の綴じ紐の内側へ入っていくのを、机の横から眺めていた。
それから女は、控えの紙を一枚千切って、こちらへ寄越した。
「お預かりした写しは、ここに。何かありましたら、この番号をお示しください」
紙には数と、青い判が押してあった。判の縁が少し掠れている。渡した側にも、受け取った側にも、同じものが残る。指の腹で判の凹凸をなぞってから、内袋に入れた。この国では、控えが手元に残るらしい。アンナは、何も止められずに通った。あの薄い一枚の書付を、若い女は名前だけ確かめて返した。
*
王都までは、丸一日と半分かかった。街道は母国のそれより広く、並木の間に、等間隔で柱が立っている。柱の頭には硝子の球が嵌まっていて、日の落ちる頃、その球が順に灯った。誰も火を点けて回らないのに、点いていく。アンナは窓に張りついて、二十本目まで数えてから、こちらを振り返った。夜の道を馬車が走れる。それだけで、旅の速さが変わる。
王都の門は、朝のうちに潜った。人が多い。荷が多い。壁の白さが、母国のそれより新しい。石を切り出す音と、木槌の音が、街のあちこちから聞こえていた。普請の音が、この街には一日じゅう鳴っている。
「建ててばっかりですね、この国」
アンナの感想は、たぶん正しかった。窓の外を、石を積んだ荷車が三台続けて通っていく。轍が深い。この街の地面は、重いものが通る地面だった。
*
宿館に落ち着いたのは、昼過ぎだった。大公家が用意したのは屋敷ではなく、街なかの館の一階と二階で、前は商家だったという。天井は高くないが、窓が多い。机が大きい。案内の女中は、こちらは書き物をなさる方のお部屋ですから、と言って、窓際の卓を掌で叩いてみせた。卓の縁には、前の持ち主が引いたらしい墨の線が残っていた。
アンナは、二階の小さいほうの部屋を宛がわれて、階段を三度往復した。荷を運び終えると、窓を開けて、しばらく外を見ていた。向かいの屋根で、鳩が並んでいる。あの子の国も、今日から変わった。
夕刻に登城を、と従者は言い残していった。それまでは休んでいてよい、と。
わたくしは、外套を着た。休むために国を出たのではない。この国が本当に「そういう国」かどうか、わたくしはまだ、一枚の紙も見ていない。閣下の言葉を聞いただけだ。言葉を聞いて、国境を渡った。武器は本当のことだけと決めていた女が、人の言った文の強さだけで、二人ぶんの荷をここまで運んでしまった。その帳尻の合わなさが、五日のあいだ、内袋の底で小さく鳴っていた。
「お嬢様、どちらへ」
「見てくるだけよ」
アンナは何も訊かずに、自分の外套を取った。それから鞄の底から布を出して、わたくしの靴に屈み込んだ。旅の泥がまだついていた。行き先も訊かない子の手が、いちばん先に動く。
*
街の者に道を尋ねると、皆、同じ方角を指した。橋を渡って、市の立つ広場を抜けて、鐘楼の裏。それだけで通じるらしい。三人目に訊いた老婆は、指をさしたあとで、わたくしの訛りを聞いて眉を上げた。
建物は、すぐに分かった。足場が組まれていたからだ。縄の匂いがする。丸太と縄で編んだ枠が、四階ぶんの高さまで立ち上がっている。その内側に、白い石の壁が半分ほど。正面になるはずのところに、柱が六本。柱の頭は、まだ何も載せていない。屋根が、ない。空が、建物の内側に見えていた。
昼の仕事の終わった時刻らしく、人はまばらだった。石屑が積まれ、荷車の轍が泥に残り、削りかけの石が布を掛けられて並んでいる。木の柵の内側に入って、わたくしは柱の数をもう一度数えた。六本。図面のことは分からない。それでも、この六本を立てるのに要った石と、人と、日数の見当だけはつく。石の面に触れると、掌に粉がついた。言葉ではない。石だ。
柵の外側の高札に、貼り紙が二枚あった。一枚はこの普請の触れ書きで、工期と、費用の出どころと、完成の予定が並んでいる。もう一枚はずっと古い紙で、めくれた角が縄で留めてあった。そちらには、熱した鉄による申し開きの作法と、宣誓の場の日取りが書かれていた。地方の村では、まだそれで人を裁くらしい。同じ柱に、二枚。
「……こっちの紙は、なんですか」
「まだ、こちらでも神様に訊いているのよ」
アンナは、貼り紙とわたくしの顔を交互に見た。
「じゃあ、あの、建ててるほうは」
「訊くのをやめるための建物」
風が来て、古いほうの紙の角が鳴った。しばらく、二人で二枚の紙を見ていた。古いほうの紙のほうが、よく読まれた跡がある。指で触られた縁が、毛羽立っていた。新しいほうは、まだ角が尖っている。この国は、まだ勝っていない。
勝った国だから招かれたのではないことも、この二枚が教えていた。閣下が欲しかったのは、たぶん、勝ち方を知っている人間だ。まだ屋根の載っていない柱の前で、わたくしは自分の値段を、ようやく少しだけ量ることができた。安くはない。けれど、思っていた種類のものでもない。
*
足場の下から、男が一人、出てきた。
外套の裾に石の粉がついている。袖をまくった腕に、白い筋。歩幅が広い。図面らしい紙を丸めて小脇に抱え、こちらへ歩いてくる。石工の頭かと思って、道を空けようとした。顔を上げた男は、閣下だった。
「早かったな」
声のほうが先に届いて、足を止めさせる。あの夜、応接間で聞いたのと同じ声だった。ただ、上着の胸元が乱れていて、指の関節に泥がついている。大公という言葉から人が思い浮かべるものとは、だいぶ違う恰好で。
「登城は、夕刻と伺いました」
「私も、そのつもりでいた」
閣下は丸めた紙を柵に置き、それから足場を見上げて、少し首を傾けた。
「柱を数えていただろう」
見られていた。柵の内側の、こちらの背中を。手袋の中で、指が丸まる。
「六本ございました」
「八本の予定だった。石が足りない。……冬までに屋根を載せる」
言い訳はなかった。説明も、それだけだった。わたくしは、柵に置かれた図面の端を見た。丸めた紙が、風で少しずつ開いていく。線を引き直した跡が、何重にも重なっていた。消して、引いて、また消して。角のところは擦れて薄くなり、紙の縁が毛羽立っている。この紙は、たくさん間違えた人の紙だった。
空は、まだ柱の間にある。屋根が載るまでにこの国で何が起きるのか、わたくしはまだ何も知らない。知らないまま、明日から、ここの何かを数え始めることになる。
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