第二十九話 時刻の印
朝、迎えに来たのは馬車ではなく、若い男だった。
鐘楼の裏まで歩いて、そこから細い路地を二本折れる。着いたのは城ではない。石造りの倉だった。扉の上に、麦の束を彫った古い飾りが残っている。押し開けると、埃と、乾いた穀物の匂いがした。
中には、机が四つ並んでいた。天井の高いところに窓があって、光が斜めに落ちている。埃が、その光の筋の中だけで動いていた。机はどれも古い。天板に、麻袋を引きずった傷がそのまま残っている。
光の中に、綴りの山があった。膝の高さまで積んだものが、床にいくつも。紐で括ったものが、壁際にもっと。紐の色が、山ごとに違う。
男が四人、こちらを見た。
白髪の老人と、赤ら顔の男と、痩せて背の高い男と、いちばん若い男。四人とも机の前に立って、上着の前を直した。わたくしがどう見えているかは、四つの顔の高さで分かる。誰の目も、こちらの顔より少し上を通っていた。
「判事の候補だ」
閣下は、それだけ言った。四人。この国じゅうで、四人。母国の王都だけで、裁きの席に着く貴族は数え切れない。数え切れない席と、四つの机。
「こちらは」
「読む人だ。今日から加わる」
立場の説明は、それで終わりだった。名乗る前から、机がひとつ空けてある。埃を払った跡が、そこだけ四角い。
*
仕事は、綴りを読むことだった。
この十年ぶんの裁きの記録を読み、裁き直せるものと、そうでないものに分ける。痩せた男が、そう説明した。閣下の指示で去年から始めたが、まだ二年目の途中で止まっているという。
「何を根拠に、分けておいでですか」
訊くと、四人が顔を見合わせた。
沈黙が長い。赤ら顔の男が、髭を撫でながら、これはどうも怪しいというやつを、と言った。老人が咳払いをした。若い男は、自分の靴を見ていた。
「怪しい、の中身は」
誰も、すぐには答えなかった。窓の光の筋が、床の綴りの山を半分だけ照らしている。
「……手触りだ」
老人が答えた。悪びれてはいなかった。手触りしかないことを、この人たちは、たぶんもう知っている。知っていて、それでもここに立って、朝から綴りを開いている。
法典はない。手引きもない。四人の掌の感触だけが基準で、その基準を書き留めた紙は、この倉のどこにもなかった。母国では、それを神に訊いていた。この国では、人が引き受けようとしている。引き受けたところで、まだ形がない。
空けられた机の意味が、ようやく分かった。
*
わたくしは、いちばん上の綴りを取った。
紐が固い。爪を入れて、ようやく解ける。頁を繰る。紙は湿気を吸って、めくると音が鈍い。
三年前の、北の村の火事の記録だった。納屋が焼け、隣家の男が油の壺を盗んだという申し立てがあり、熱した鉄によって決められている。男は火傷が膿んで、有罪。村を出されて、その後のことは書かれていない。妻がいたかどうかも、子がいたかどうかも。
書かれていることは、それで全部だった。
次の綴りを取る。荷の受け渡しの控えが束ねてあった。この国の商いでは、荷を受け取ると器械に紙を差し入れ、印を押させるらしい。紙の隅に、小さな四角。中に数字。日と、刻。指でなぞると、印のところだけ紙が硬い。
母国にも、同じ器械はある。押させる相手が、身分で選ばれるだけで。
時刻の印。
頁を戻した。火事の記録には、火の出た刻が書いてある。真夜中を少し過ぎた頃。隣家の男は、その刻に納屋の裏にいたことになっている。
荷の控えを繰った。同じ村の、同じ日。男の名。荷を受け取った刻の印。真夜中の少し前と、明け方の少し前に、二つ。
指が止まった。
二つの印の間、男は荷馬車の上にいる。村から半日の道のりを、荷と一緒に動いている。納屋の裏には、立てない。
もう一度、頁を戻した。日付を照らす。名を照らす。刻を照らす。三度、同じ順で確かめた。紙の端が、指の汗で少し波打っている。窓の光は、机の縁まで動いていた。
顔を上げると、四人が見ていた。
*
白髪の老人が、こちらの机まで来た。わたくしは何も言わずに、二枚の紙を並べて置いた。火事の刻と、荷の刻。老人の指が、四角い印の上で止まる。それから、牛のように低い声で、何かを言った。訛りが強くて、聞き取れない。
「なんと」
若い男が、通じる言葉で言い直してくれた。
「――手触りではない、と」
赤ら顔の男が、綴りを一つ抱えて戻ってきた。痩せた男は、もう写しを取り始めている。ペンの尻で、机を二度叩いてから書き出した。誰も、大声は出さない。倉の中の音は、紙をめくる音と、椅子を引く音だけになった。
老人は自分の机へ戻ると、山のいちばん下から一冊を抜いてきた。表紙の角が丸くなっている。何度も出し入れされた綴りだった。開いて、ある頁を叩く。決闘によって決められた裁きで、勝ったほうの名の横に、赤い印が押してあった。
この一件を、この人はずっと手触りで疑っていたらしい。疑ったまま、五年、机の山の底に置いていた。
老人が、わたくしの手元の綴りを指した。それから自分の机の山を指して、頷いた。
同じやり方で、全部やれ。そう言われたのだと思う。
*
閣下が戻ってきたのは、日が傾いてからだった。
並べた二枚を見て、しばらく黙っていた。それから、火事の記録の頁をもう一度めくって、閉じた。
「この男は、今どこに」
「書かれておりません」
「探させる」
閣下は倉の柱に背を預けて、腕を組んだ。石の粉は、今日はついていない。袖口に、インクの染みが一つ。
「ただ、見つけても、裁きは戻らない」
言葉の意味を、わたくしは取り損ねた。取り損ねたことが顔に出たらしく、閣下は組んだ腕をほどいた。
「一度決まった裁きを、間違いだったとして開き直す。その手続きが、この国にはまだない。誰が申し立てられるのか、誰が調べ直すのか、どこに出すのか。決まっていない」
「……この国にも、ですか」
「この国にも」
紙の上で、男は無実だった。無実であることが、二枚の紙で示せる。示せて、それだけだった。示した紙を持っていく先が、どこにもない。
母国では、正しさを示しても身分に潰された。ここでは、潰す者すらいない。ただ、道がない。
「だから建てている」
閣下はそう言って、扉のほうを見た。倉の外で、鐘が鳴っていた。柱の上には、まだ何も載っていない。
*
帰り際、老人がわたくしの机に、明日ぶんの綴りを積んだ。
膝の高さより、少し高い。積んでから、埃を払うように上を二度叩いた。それが、この人の挨拶らしかった。指の節が太い。長く紙をめくってきた手には見えない、畑の手だった。
外に出ると、路地に西日が入っていた。館まで歩く。アンナが窓から手を振っていて、湯の支度ができていると言った。
部屋に入って、外套を掛けた。湯の匂いがする。窓際の卓に灯りを置いてから、指をもう一度見た。紙の粉で、白い。爪の際に、紐の繊維が挟まっていた。
この十年の綴りを全部読み終える頃、この国のどこかに、開き直すための道ができているかどうか。誰も約束していない。明日も倉へ行って、紐を解いて、頁を繰る。今日と同じ順で、日付と、名と、刻を照らす。
やることは、それだけだった。
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